2006年5月アーカイブ

1976年10月、後輩の具志堅用高選手が世界王者になった以降、上原康恒選手は日本タイトル防衛とノンタイトル戦を繰り返す。決まりそうで決まらない世界再挑戦。

世間では”後輩”具志堅選手の世界タイトル防衛記録ばかりが騒がれ、全く目立ちませんでしたが、上原選手も先輩の意地を見せ具志堅選手と張り合うように、オール日本人選手相手に7連続KOを続けます。

7連続KO中の1979年7月、日本タイトル防衛戦で対戦したのが5位・池原良孝(金子)選手。沖縄出身のサウスポー。ランク入り前の選手紹介では「サウスポーの上にやりにくスタイルで、上位の選手が対戦してくれない」と、紹介されています。アッ、ランキング入れちゃったの大竹マネジャーですね。(~~)今でもよく言います。「あれはやりにくいよ〜」(~~)

試合は7、9回と上原選手がダウンを奪いましたがKOするまではいかず、選評も散々。世界はいまだし?先代金平会長も「世界はもうちょっと様子を見てから」と渋い顔。

上原選手、「”世界、世界”と先走って、つい力みすぎ。KOを狙いすぎてしまった」「一から出直します」

”この年10月で30才。出直しの余裕などないはず”とまで書かれていますから、かなりきついですよね。この時WBAランキング7位。

上原選手この後日本タイトル2度の防衛を重ねます。ブレーザー・大久保(大阪帝拳・故人)選手との7度目の防衛戦、5回KO勝ちが80年3月2日。大久保選手引退後はトレーナーとして、辰吉丈一郎選手とのコンビで有名になりましたね。

さて上原選手、この時WBA世界ランキングは1位。そして世界タイトル挑戦は、試合3週間前に突然決まります。8月2日デトロイト。 「康恒連絡付かないなぁ」「どうしちゃったんだ」「誰か知らないか?」「困ったなぁ〜」「捜索願だすか」(~~)先生方は皆ユニークでした。携帯電話もない時代です。

上原選手、本人不在で発表された世界戦の”新聞記事を読んで”ジムに現れました。少し早い夏休みだったのか、「秘密の特訓してたのよ」。真相はよくわかりません。(~~)

しかし、急仕上げのトレーニングが始まりました。何か”ロッキー”みたいな感じでしょうか。ホントに急だったので、当時上原選手を担当していた上甲先生、パスポートが間に合わず試合に同行出来ませんでした。(~~)

「見送りなんか、誰も来なかった」状況で、試合地デトロイトへ出発。試合は米・デトロイトでの3大世界タイトルマッチの一つとして行われました。メインはピピノ・クエバス(メキシコ)にヒットマン・ハーンズが挑戦したWBA世界ウェルター級タイトルマッチ。歴史的な試合ですね。

上原選手の試合は一番最後、2万人の大観衆が帰り始めた頃行われました。試合は淡々としたペースで進みますが、前半5回が終わったところで先代金平会長は、「康恒君の好きなようにやってみたら」と一言。

もう一人リングサイドからアドバイスをおくった方がいました。現夫人の美穂さん(当時は婚約中)で、飛行機を乗り継ぎ、英語もしゃべれないのに一人で試合前日、デトロイトのホテルまで応援に駆けつけていたのです。

「康恒〜。何やってんだ、ぶっ飛ばしてこい」(~~)ジョー・ルイス・アリーナに大きく響き渡ったこの一言に、上原選手は燃えました。

続く・・・。
亀田興毅(協栄)選手がWBA世界L・フライ級王座決定戦に出場する事が正式に発表された昨日、かつてこのタイトルを保持していた”トカチャン”こと、元WBA世界L・フライ級王者・渡嘉敷勝男氏(渡嘉敷ジム会長)と、大竹マネジャーとで一杯やりました。

先日行われた協栄会の席 で、近々に一杯やろうと約束していたものです。新宿歌舞伎町を歩きながら、「懐かしいなぁ〜」「昔、よく遊んだなぁ〜」「最近、全然来ないよ」

トカチャンとは今はなき”ディスコ”へ良く行きました。土曜日朝まで踊って、夏場は、そのまま大竹マネジャーの車で”江ノ島”へ。こちらは疲れで寝ているのにトカチャンは、あっという間に女の子とビーチボール遊び。(~~)下写真は豊島園にて。

当時7万円位の給料でしたが、月に一度一人一万円以上使って一緒に行っていた店があります。代々木の駅前ですね。当時の協栄ジムは代々木にありました。何せ良く食べよく歌うので、月に一度の贅沢はけっこうな金額いちゃってました・・・。「良くあんなに使ったなぁ〜」「君が誘うから」「俺のせいか?」「オフコース」

お金がない時は、肉まん二人で半分ずつで我慢。当時一個60円くらいかなぁ〜。トカチャン減量中は、東京温泉(サウナ)の帰りよく飲食店のショーウィンドウの前に立って、「これ食いたいなぁ〜」とジッと見つめてましたね。

今は愛弟子山口真吾選手の世界タイトル再挑戦に夢を賭けています。写真は、張正九のWBC世界L・フライ級王座に挑戦する為、韓国へ乗り込んだ渡嘉敷選手と宿舎のあった慶州の街で。

写真右、大竹マネジャーです。「何で現役より痩せてんの」「めずらしいよこんなの」「あの頃は何だったんだ」「節制と、これだよ(何)?」(~~)「今でも、ヨミウリ」(~~)

写真左の実弟・勉君。その後まさかプロボクサーになるとは、この時わかりませんでした。兄貴、従兄弟(宮城正作・元日本ランカー)と違って彼は打たれ脆かったですね。同族でも違うもんですねぇ〜。

トカチャン”禁煙”してました。我々二人は喫煙の経験はありません。「えらいねぇ〜」「よくやめられるねぇ〜」「あれ、小学生から吸ってたんだっけ」「幼稚園でしょ」(~~)ハッキリしませんが、背が伸びなかったのはこのせい・・・。(~~)

でもトカチャン、具志堅さんをぶっ倒す為にボクシングをやろうと決め、除夜の鐘を聞きながら口、鼻、耳と入るだけタバコ入れて最後のイップクしたそうです。(~~)それ以来、芸能界入りするまで一切やらなかったのは偉い。

遊んだ後は、カッパ着て寝るんだから合理的でしたね彼は。雨で走れない時は職場のあったビルの階段の上り下り。私は、体のために”8時間の睡眠”第一。理屈は合ってる?(~~)

渡嘉敷選手にはデビューから世界王座奪取、世界再挑戦失敗まで、表から裏からよい勉強、経験をさせてもらう事が出来たと感じています。今は芸能界でビート 武 (北野 武)さんに大変かわいがってもらっているそうです。北野さんは元世界チャンピオン・トカチャンには、尊敬の気持を持って接してくれるんだそうです。今後の活躍に期待してください。そして応援も宜しくお願い致します。

楽しい夜でした。続く・・・。
プロデビューから僅か2年足らず、上原康恒選手は10勝(8KO)1敗の戦績を引っさげ、1974年8月ホノルルでベン・ビラフロア(比)の持つWBA世界S・フェザー級王座に初挑戦。もちろん日本にもTV中継されました。

チャンピオン・ビラフロアは、14才からプロのリングに上がり19歳4ヶ月の若さで、日本の小林 弘 (SB中村)選手から世界王座を取って代わっていた、アルフレッド・マルカノ(ベネズエラ)を攻略し、世界タイトルを奪っています。

ハワイのリングを主戦場とし、サム・一の瀬プロモーター(故人)の手で世界王座に付いたビラフロアは、日本人選手との対戦も多く8戦6勝(6KO)1敗1分の戦績。ファイターには滅法強いが、足を使うアウト・ボクサーは苦手の傾向があります。

ハワイのリングで上原選手がデビューした頃、ベンはもうすでに世界チャンピオン。カラカウア・ジムで一緒に汗を流す事もあったと思われます。この試合ベンにとっては、柴田国明(ヨネクラ)選手に奪われたタイトルを取り返しての2度目の防衛戦。連続7人目の日本人対戦者が上原選手でした。

上写真は、ハワイの試合会場NBC。とてもよい会場です。アラモアナから近いところにあります。

試合は実にあっけなく終わります。1ラウンドから上原選手ダウン。それでも打ち合いを挑む上原選手。1発の威力をまざまざと見せ付けられた試合になりました。テンプルにもらったパンチが効きました。

作戦的には最初足を使う予定だったようですが、上原選手行ってしまったようです。2回1分17秒KO負け。始めて味わう屈辱、大きな挫折。この時24才。

ここからの上原選手の道のりは実に長い。日本タイトル防衛を続けながら、じっと、やがて来るであろう世界タイトル再挑戦のチャンス待ちます。日本タイトルを親友のマサ・伊藤(山口協栄)選手に一度奪われたり、フィリピン遠征で敗れる(地元判定?)等、後輩・具志堅選手が世界王座を獲得した1976年は、全くよくない。

それでも77年からは日本タイトル戦も含め7連続KO。この中には、後にOPBF王者・世界2位まで躍進した吹打 龍 (ヨネクラ)選手、タフで知られ後に日本S・ライト級王者・世界3位まで進出する守安竜也(平沼)選手も含まれます。

結果的にいうと、後輩・具志堅用高選手が世界王座に上り詰めた以降は、ラスト・ファイトまで負けていません。12勝(10KO)。この頃は、昔のような激しい練習はやっていなかったようですが(^^)。

はじめて気が付きましたが、今振り返ると素晴らしい”意地”を見せていますね。とにかく具志堅さんと比較されて大変でしたから、先輩である上原選手の胸中はいろんな想いがあったと思います。

しかし、世界王座を獲得した後言ってました。「具志堅がいたからこそ、自分も世界チャンピオンになれた」と。

この言葉、重いですね。その言葉の裏側には、言い尽くせない想いが込められています。上原選手の世界タイトル獲得20周年のパーティに出席させていただきましたが、感動しました。

何か坂田選手と亀田選手のようなと、つい感じてしまいます。上原選手には大変面倒を見てもらいました。シューズ、練習道具はもちろん、食事もたくさん。後輩から言うのは大変失礼ですが、人間的にとても”いい人”です。大竹マネジャーも言っています。そしてまた、坂田健史選手も実に”いい男”なんです。

アッ、亀田選手も頭の良い”好青年”ですよ。とかく誤解されがちですが、そんな事ありませんよ。本当に・・・。明日を夢見る全てのボクサーと同じ種類の人間です、間違いありません。

坂田選手も、明日を信じて腐らず頑張っています。上原選手のサクセス・ストーリーが、少しでも参考になれば嬉しいと思っていますが・・・。

という事で、次回は当時をリアルに振り返りながら、続きます・・・。
読売新聞によると、亀田興毅(協栄)選手の世界戦が8月2日横浜アリーナで行われることに内定と出ています。WBA世界L・フライ級王座決定戦で、ベネズエラの元ミニマム級暫定王者ファン・ランダエダと対戦。

亀田選手は、1階級落として初の世界戦。プレッシャーはあるでしょうが、ハートは飛び切り鍛えられていますから、問題無。ウエートさえ普通に落ちるなら、ノー・プロブレム。サウスポー相手ですから、ジャブを使ったボクシングで強打者を迎え打つ事になるでしょう。

一方のランダエダは、階級を上げての試合。04年10月、新井田 豊 (横浜光)選手との、タイトルマッチでは1−2の1ポイント差、際どい判定負け。サウスポーの強打者です。戦績、24戦20勝(16KO)3敗1分。新井田戦後4連勝中。但し、今年は試合した記録がありません。

新井田選手との試合は国技館で見ましたが、「そんなに悪い選手ではないよ」というのが正直な印象です。

ランダエダは足は使えません。亀田選手とは真っ向から左強打対j決になりますね。L・フライ級では、破格のKO率を誇る選手同士の対戦、これはKO決着必死でしょう。見て面白いカードだと思います。

前座カードも充実の豪華版になるようです。日本ランカー多数出場予定。大毅選手は出場するのかどうかわかりませんが、平日の横浜アリーナ、大観衆で埋まる事でしょう。好試合が期待出来ます。

WBA世界L・フライ級王座は協栄ジムにとっても縁のあるタイトルです。具志堅用高選手、渡嘉敷勝男選手の二人がこのタイトルの王者として活躍しました。

具志堅選手、アマ高校王者からプロ入りし最初はフライ級で戦っていましたが、体で押されあまりパッとしませんでした。が、L・フライ級が世界に新設されるといち早く転向。7戦目でWBC3位にランクされるシーザー・ゴメス・キー(米)14戦無敗12KO勝ちとの勝負の一戦に挑み、見事7回KO勝ち。

前哨戦1試合をはさみ挑戦した王者が時のWBA世界L・フライ級王者ファン・グスマン(ドミニカ)。21勝(15KO)1敗のハードパンチャー。予想は、もちろん不利でしたが、素晴らしい7回KO勝ち。以後、13度の防衛をする名王者になります。

渡嘉敷選手は、素人から3年で世界王者へ上り詰めます。全日本新人王獲得後、日韓新人王対抗戦で初の黒星。試合後、名古屋から帰ってきた”トカちゃん”朝まで歌いまくって気分転換。気持の切り替えが素早いのがいい所でした。写真は、名コンビの福田トレーナー(F・Iジム会長)とハワイキャンプで。

デビューから2年半、11勝(1KO)1敗1分で挑んだ勝負の試合が、先輩具志堅選手の世界タイトルにも挑戦し、大いに健闘した実績のある世界2位金 龍鉉(OPBF王者)戦。この試合、まだスタミナのなかった渡嘉敷選手でしたが際どく判定勝ち。

そして、入門後僅か3年半後の81年12月世界タイトル初挑戦。予想全く不利での挑戦で、WBA世界L・フライ級王者金 煥珍に判定勝ちで世界タイトル獲得。先輩具志堅選手が保持していた世界王座が僅か9ヶ月で協栄ジムへ戻ってきました。

何れも、世界タイトル挑戦に繋がる為の”勝負の試合”を見事にクリアして世界王者へと上り詰めた点。どんな環境でも練習以上の力を試合で発揮できる”強いハート”。素直さ。遊んでも(^^)絶対に走る。共通した所がありますね。

亀田選手も協栄ジム移籍後すぐに、OPBFタイトル挑戦という”勝負の試合”を見事クリアした事で、一気に世界が見えてきました。ランキングとはそういうものです。この試合を組めた事が一つの勝利であり、「地位が人を変える」の言葉通り、亀田選手もより一層強くなりました。

誤解される向きの方もいらっしゃいますが、「強い者が勝つんじゃなくて、勝った奴が強いんだ」。ボクシングの歴史はこの繰り返しではないでしょうか。もちろん普段からから努力、節制していなければ”勝った奴”にはなれませんが。

失敗、勝てなかった例もありますが、協栄ジムでは昔から意欲ある選手には”勝負の試合”をマッチメークしています。時々の情報、情勢を分析する能力、ルート、人間関係、交渉力がなければ出来ない事です。

さて、歴史に戻ると上原康恒選手も”勝負の試合”を見事にクリア、世界タイトル挑戦の舞台が用意されました。それも想い出のデビューの地ハワイで、僅か2年弱11戦のプロキャリアで・・・。

続く・・・。
1971年9月、アントニオ・ゴメス(ベネズエラ)との防衛戦に敗れ、約3年間君臨したWBA世界フェザー級王座に別れを告げた西城正三選手。この試合の赤コーナーには、イトウ先生と共に親友エディ・タウンゼント氏(故人)がセコンドにつき、珍しい両者の揃い踏みとなりました。

当時の世界フェザー級。71年4月のWBAランキングです。

      チャンピオン  西城 正三 (協栄)
       1 位    アントニオ・ゴメス (ベネズエラ) 
       2 位    エデル・ジョフレ (ブラジル)
       3 位    ホセ・レグラ (スペイン)
       4 位    柴田 国明 (ヨネクラ) WBCチャンピオン
       5 位    ロベルト・デュラン (パナマ)
       6 位    フランキー・クロフォード (米)
       7 位    ゴドフリー・スチーブンス (チリ)
       8 位    ビセンテ・サルジバル (メキシコ)
       9 位    エルネスト・マルセル (パナマ)
      10 位    ホセ・アメカ (アルゼンチン)

実に凄いメンバーで、ランキング選手10人の内7人が、世界チャンピオンになっています(解りますか)。世界戦となると10位のアメカ選手以外は、皆世界タイトルマッチを経験しています。

大竹マネジャーが、現役を退いてからだいぶたった頃の西城先輩に「デュランとやらなくて良かったですね」と冗談を飛ばすと、「ホントだよ、殺されちゃう所だったよ」(~~)と見事に切り返しているのには、大笑いさせられてしまいしました。私はデュランが東京に来た時、水道橋の焼肉屋さんで、ビールを注いであげた事が一番の自慢話ですね。(~~)

さて、西城選手に次ぐ協栄ジムのスターは、元祖”沖縄の星”上原兄弟でした。アマチュアの頃から沖縄では大変な人気。当時は内緒でしたが、契約金が1千万円も支払われていました。凄い!

兄・康恒選手は協栄ジム入りして、そのままハワイのイトウ先生のところへ預けられ、ホノルルで1972年11月14日プロデビュー。その1週間後には第2戦やってます。

そして、弟・フリッパー上原(晴治)選手はロスでプロデビュー。二人揃って、故郷沖縄での凱旋試合が組まれたのが73年11月。この凱旋試合で兄・康恒選手は、時のWBC世界S・フェザー級王者・リカルド・アルレドンド(メキシコ)を判定で破る大金星。デビュー僅か1年で、世界ランキング入りを決めました。

弟のフリッパー上原選手は、元世界フェザー級9位・メミン・ベガー(メキシコ)に一方的な判定勝ちを飾り、見事故郷に錦を飾りました。

この時ベガーのスパーリング・パートナーを務めたのが、モスキート級の高校生ボクサー・具志堅用高選手でした。このスパーを見た先代金平会長が、「懐に入り込む度胸の良さ」を見抜き、後の協栄ジム入りとなったわけです。

高校生の具志堅選手。銭湯を経営していた上原家に下宿していました。下宿代はタダ。しかし条件が一つ。ボクシングをやること。なんだか訳がわかりませんが、こうして世界王者・具志堅用高誕生へと”星”は動き始めていました。

一躍日本を代表するホープとなった上原兄弟ですが、これから茨の道が待っていようとは、知る人はいません。兄・康恒選手が世界王座にたどり着くのは、この凱旋試合での勝利から7年も後の事です。

「あんなに練習する人が、世界チャンピオンなれない訳が無いと思っていた」当時の康恒選手の練習を見ていた大竹マネジャーがよく言ってました。それくらい練習していたと・・・。

続く・・・。

先代金平会長・最後の弟子

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「ゼロから夢を作る会」先代会長が、”最後の弟子”坂田健史選手の為に作ってくれた後援会の名前です。現在は、”路草会”(みちくさかい)という素晴らしい後援会がバックアップしてくれています。

坂田選手、高校の休みを利用していくつかのジムを回り”協栄ジム”を選択。地元広島の竹原ジム・竹原三郎会長(元世界ミドル級王者・竹原慎二選手の実父)の紹介で、協栄ジムへ入ってきました。

今でも覚えていますが、黒ずくめの服装で帽子を被って、ちょっと暗めな感じだったような。(~~)先代会長に言われて、大竹マネジャーと一緒に近くのステーキ屋さんで食事しました。

「バイトはどんなのがいい」「僕は体を動かす仕事がいい」という事で始めたのが、現場の仕事ですね。水道工事の設備屋さん。規則正い生活リズム、と共に体も出来る仕事ですね。デビューまで現場の人でした坂田選手。

練習を始めた坂田選手を見て、「どうかね坂田は」「パンチありますよ。面白いものは持ってます」「世界まで持っていけたらいいね」先代会長とそんな会話をしました。

”最後の弟子”重たい言葉ですね。坂田選手の兄弟子、共に練習してきた佐藤 修 選手は、見事世界王者の夢をかなえました。坂田選手は、2度の世界王座挑戦も実らず、いまだ夢を果たせていません。が、多くの暖かい人達に囲まれ夢に向かっています。

トラッシュ・中沼(国際)選手に敗れ、初めての敗戦を経験した夜、私も、坂田選手、大竹マネジャーと共に、”路草”へ向かいました。丸の内線で池袋へ出て、歩く道すがらは、無言。悔しさに、話す言葉がありません。

”路草”では、懐かしい仕事仲間の方々が、たくさん待っていてくれました。デビューの時からずっと試合を見に来てくれる、おじさん。坂田選手が、直接仕事を教えてもらっていた人で、いつもホールでは、坂田選手の出番が遅いと酔っ払ってしまう、面白い人。しかし、この夜、めずらしく酔いは無く、悲しい顔をしている坂田選手を見ると、「坂田泣くな、坂田泣くな」と言って、あたりはばからず号泣。これは、感動的なシーンで、今でも忘れられません。

帰り道、大竹マネジャー、「借りは返すぞ」。「ハイ」としっかり応えた坂田選手。その後、中沼選手に借りを返すチャンスが来るまで、1年間待ち続け、見事に借りを返した夜、とびきりの笑顔で、皆が待つ”路草”へ飛んでいきました。

パーラ第1戦でアゴを割られた試合後の控え室、1人でアゴを両手で支えながら先輩・佐藤 修 選手の応援をしていた坂田選手。パーラ第2戦終了後は何も言葉が出ない程の落胆・・・。

しかし、諦める訳には行かない。この写真見ると、本当にそう思います。”最後の弟子”なんだから、やり遂げなければいけないと。

先代金平会長・協栄ジムの歴史Ⅹ

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先日は凄いメンバーが集まった協栄会。南北問題(~~)も丸く収まり、今後の協力を皆で約束しあいました。いい会でした。

そんな協栄ジムの”元祖”は先代・金平正紀会長。早いもので、亡くなられてからはや7年の歳月が流れました。選手時代の金平会長は、最高位が日本バンタム級1位。ノンタイトル戦で王者を破った事はありますが、タイトルには恵まれせんでした。しかし、昭和31年のチャンピオン・スカウト・トーナメント優勝を飾っています。写真、前列右。

野口ジムの兄弟子、三迫ジム・三迫仁志会長とのスパーリング。三迫会長は東洋フライ級王座を獲得し、世界タイトル挑戦まであと1歩で引退されました。

現役時代ダウンしたのは1度だけ、KO負けはないタフネスと強打を誇りました。その後の人生にも、そのタフネスを存分に発揮していたと思います。

肩幅が広く、腰周りが細い。これはウエートきつそうですね。引退の原因は、厳しい減量を繰り返したあげく、肝臓を壊したのだそうです。しかし、海老原さんがデビューしてからしばらくは、先代金平会長と山神トレーナー(山神ジム会長)が交代で海老原さんのスパーリング相手を務めていたんだそうです。ヒルマ先生、頑張らなくては(~~)

海老原さんのパンチは、”トンカチで殴られるように痛い”パンチ。海老原選手が世界タイトルを獲得した時、先代会長は29才。やっぱり若かったんですねぇ。まさに、身をもって苦労するです。

ポスターを見ると、野口ジム対新和ジム(名門でした)の定期対抗戦。これから、協栄一門での対抗戦で昔の師弟同士が戦うのも、盛り上がって面白そうだと思います。年に一度くらいOBの方達に、たくさん集まってもらえるような興行があってもいいですね。OB会付きでどうでしょうか。休日、少し早い時間から始めて終了後、皆でワイワイ。出来たらいいですねぇ〜。

金平桂一郎現会長は、プロでこそボクシングしていませんが、若い頃大竹マネジャーにしっかり習っていました。やせていた昔の写真ですが、先代に似てるかなぁ〜。(~~)写真、中央。

アッ、大竹マネジャーの子供さんではありません。(~~)ハワイの知り合いのお孫さんです。これは20年くらい前の写真ですね。

先日協栄会を行った”中の濱”新大久保店の店長の千坂さん、ちょっと話してみると、連続1RKOで全日本新人王を獲得し、強打の日本ランカーとして活躍した山本兼当(三好)選手と2回試合をしているそうで、これにはビックリ。

大竹マネジャー、現在も山本選手とは親しいお付き合いがあり、ご子息にもボクシング教えていて、たまに一杯やったりする間柄。この偶然には驚きましたね。世界は狭い(~~)「今度、連れて行ってやろう。喜ぶだろうな」(~~)

写真は、金平選手の汗を拭く、三迫会長。偶然の積み重ねがボクシングですが、こうやって試合した同士が会うのっていいですね。ほとんど試合場以来の再会。これも楽しみですね。

5月20日、新大久保駅前”中の濱”に協栄会のそうそうたる面々が集いました。この日出席出来なかった方もいらっしゃいますが、関東近隣の協栄ジム出身の元世界王者3名、日本王者1名を含むジムオナー、マネジャーの面々です。まずは写真をご覧下さい。

今後、この協栄会メンバーで興行等も行っていこうと相談。地方で活躍されている協栄出身、傘下のジムにも声を掛けていくことになりました。また来年は亡くなられた大先輩、元世界フライ級王者・海老原博幸氏の17回忌が、協栄ジム・金平桂一郎会長の主導の下、行われることも確認されました。

昔は、けっこうお酒が強かった先輩も「いやぁ〜医者から止められちゃって、酒、タバコ、・・・はダメだよ」と、ドクター・ストップで、コーラ。(~~)

宮下会長は、昔からコーラ一辺倒で有名です。今は”ダイエット・コーラ”にしてるのかなぁ。ハワイのイトウ先生も「ミヤシタ、コーラ好きね」と、いつもおっしゃられます。宮下会長と西城会長は、相変わらず仲が良いです。

山神会長、具志堅会長は真面目ですね。岡野会長は、いつも物静かな感じ。

皆元ボクサーだけあって、年齢のわりには(~~)食欲も凄い 。よく食べます。なんとか会費分は食って帰るぞ〜という”闘志”満々の先輩もいたり(~~)ただ飲むばかりの先輩も(~~)

大竹マネジャー、「先生、この間ダウン取った時やったと思ったでしょう。でも、最後やられちゃまずいですねぇ〜」「まいたッよ。また、チャンス下さいよ会長」(~~)

ちょっと離れた席で、「そんなに甘くないよ、この世界は。チャンスなんてめったに来ないんだから」(ちょっとマジかなぁ)(~~)

先日、初の師弟対決を終えたばかりのF・Iジム福田会長と渡嘉敷ジム渡嘉敷会長の会話です。渡嘉敷会長も、いきなりダウン食らった時「ちょっとあせった」らしいです。

師弟関係にありながら友達同士のような二人、そのやり取りは掛け合い漫才。どこまで本当で、どこからが冗談なのか?相変わらず面白い。写真の福田先生(失礼!)、会長、何か嬉しそうな感じですね。(~~)

「先生に教えてもらわなかったら、俺はチャンピオンにななんかなれなかったよ。先生だからこそだよ」「いや彼は、誰が教えてもチャンピオンになったよ」の二人の会話は”いい話”ですね。

”トカシキ君の答え”だけしか知らないファンの方は解らないと思いますが、トカチャンは”ハート”が非常に強いボクサーでした。戦う前の目は”鋭い”。写真は京都での4度目の防衛戦、右先代大鵬ジム会長(故人)、左高橋会長。

でも直ぐに「俺の背は、小学生から伸びてないんだよ〜」「そんなの今頃気付いたんですか」昔から、身長の話題では競り合っていた二人。0.5センチだけ、渡嘉敷会長の方が高いらしい。二人で勝負をやると、お互い”つま先たち”になるんで判定は微妙ですね。昔から(~~)


下写真は、渡嘉敷選手が世界王座を奪った試合後のパーティで先輩の歌手のジョー・山中さんと。映画”人間の証明”のテーマ曲で有名です。山中さんは、宮下会長を尊敬し協栄関係の何かの時には、いつも駆けつけてきてくれます。

どこまで書いていいのやら(~~)ですが、今年はOB会を開催しなければと相談しています。楽しみにしている方も多く、よく聞かれます。今の若い選手達も、ぜひ先輩方に紹介したいと考えています。

旬魚旬菜”中の濱”新大久保店は、”三迫ジム”所属の元A級ボクサー、千坂昇幸さんが店長を務めています。新大久保駅まん前のビル3Fです。TEL03−3360−3806。綺麗でいいお店ですよ。

このお店、シャイアンジム・山本会長に連れて行ってもらったのが最初で、店長・千坂さんを紹介して頂きました。偶然にも三迫ジム所属だった事を聞いて、三迫会長は先代金平会長の先輩に当たるという歴史を顧みて、このお店でやるのがいいだろうと、大竹マネジャーが会場を決めました。概ね、好評で良かったです。

千坂店長はじめ、従業員の方々、お客さんの中にも、このメンバーを見て驚いていた人がいましたね。やっぱり凄いなぁ〜、ボクシングは。今後も、ご声援よろしくお願い致します。

仲里 繁 VSハーバート・康?

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ダイナマイトパンチ同士の対戦。この二人が戦ったならば、どんな試合になるんだろう。左フックと右アッパーの真っ向勝負。

仲里選手の強打は記憶に新しいところです。その左フックは”一打必殺”の威力。モンシブール世界王座陥落の一因は、仲里選手との激闘後遺症だと考えるのは、私だけでしょうか。

一時スランプに陥った仲里選手が甦り、東洋・太平洋王者、世界タイトル挑戦者まで上り詰めた要因の一つは、”ハワイ・キャンプ”。全身筋肉痛に冒されながらも(~~)、よく走りました。いや、走らされた(~~)

写真はダイヤモンド・ヘッド展望台での1枚。左から仲里 繁 選手、佐々木基樹選手、坂田健史選手、佐藤 修 選手、大竹マネジャー、私です。

全ての選手が、それぞれベルトを巻き世界ランキングに入りました。中でも佐藤選手は、世界王者に輝いた。よく育ったというべきか、育てたというべきか、仲が良い中にもお互いのライバル心を煽らせ、火花を散らせた結果ですね。

伝統ある”ハワイ・キャンプ”。他にも、たくさんの選手がこのキャンプを通じ成長していきました。中には、「あいつはメシ喰いに来てるだけだ」と言われたような選手もいましたが・・・。(~~)

一番年長は仲里選手、年下が坂田選手。しかしこの二人は馬が合い、今や”義兄弟”の間柄。佐藤選手は、”静”のマイペース。佐々木選手は、”動”のマイペースとわかりやすい。(~~)

佐藤選手、毎日走るペースが変わりません。坂田選手もそうですね。自分の前を走る奴が出ると、許せないタイプのようですが(~~)佐々木選手、仲里選手はその日の気分次第といった所でしょうか。(~~)

佐藤選手、短距離ダッシュはいつも一番。”ラスト”の声が掛かるまで、いつ終わるとも知れず続くダッシュの繰り返し。そんな中、仲里選手は大竹マネジャーの顔色で、残り回数をチェックする頭脳的一面も・・・。

カレーライス喰い過ぎて、脂汗をにじませながら走った佐々木選手。食欲は一番。1ポンドのステーキじゃ足りませんね。よく食べるし、よく走る。「バッカじゃないのアイツ。喰い過ぎだよ昼間から」「顔色悪いですねぇ〜」「いいよほっとけ」ハワイのカレーは、具沢山で美味しいのです。

ハワイでよきライバルに恵まれた仲里選手、あれから本当に欲が出てきたように思います。それにしても世界戦では、「あと一発」でしたね。そんな仲里選手が、あのハーバート・康ともし対戦していたら・・・。

仲里選手が”左フック”一発なら、ハーバート・康 は”右アッパー”一発当たれば相手が沈みます。左フック得意の柴田国明選手をこの1発で眠らせている他、上写真の東洋王者・斉藤勝男(タナカ)選手も右アッパー1発でタイトルを強奪されました。

予想は難しいが、旨がワクワクする好試合ですね。ハーバート・康選手は、お父さんも東洋王者だった親子鷹。マネジャー、トレーナーもお父さんが務めています。しかし、若いうちに”天狗”になってしまったんでしょうね。選手として一番上り詰める時に、遊んじゃいました(~~)

努力という点では、仲里選手の文句ない勝ちですね。康選手日本でカムバック、世界を目指しましたが、失われた時は帰っては来ませんでした。写真は日本でのカムバック、対清家戦。やっぱり同じ風景が・・・。凄い。

今、ハワイのスタンレー・イトウ先生の所には18才のアマ・ボクサー小野木協栄(カナエ)君が合宿中。スパー大会にも2度出場。今度は、試合出場予定です。協栄と書いてカナエ。成長が楽しみですね。スパー大会には誰でも出場、参加できますので、お気軽にどうぞ。STANLEY HAWAII INN

近日中に元日本S・バンタム級王者の清水 精 (クワシ)さんが、ハワイに来られるそうです。今はロスに住む清水さん。ヨネクラジムの所属でしたが、現役時代ロス、ハワイ遠征が長く、沖ジム・宮下会長の事を”兄貴”と呼んでいたそうです。イトウ先生とのお付き合いも長いですね。



昭和44年、この清水選手と中島健次郎(船橋)選手の日本S・バンタム級タイトルマッチは、世界戦を押しのけてこの年の年間最高試合に選出されています。写真。倒し倒されの激闘、凄いですね。



若い頃から外国での生活を考えていた清水さん。今はその夢も果たし、悠々自適の毎日です。そんな清水さんも、小さい頃アマ選手だったお父さんからボクシングの手解きを受けたそうです。

ハワイでは、お父さんが子供にボクシング教えるの多いですね。悪い遊び、悪い仲間、ドラッグに近寄らないようさせる為にそうするのだそうです。
中学生だった大竹マネジャーが憧れた西城正三選手。カッコよくて強くていい男。この頃にはまだ珍しい女性ファンもたくさん集めました。

イトウ先生の住むハワイ・キャンプも度々行っています。みっちり走って、遊びも目一杯?やったらしいです(~~)しかし、お兄さんの正右トレーナーによると「見た目より堅物」なのだそうです。

ハワイでは、カピオラニ公園を1時間ロードワーク、夕方はジムワーク。その合間をみて、サーフィン、馬乗り、ゴーゴー等遊びの方も悠々とこなしています。

「ボクサーっていうと練習、練習の明け暮れで、ほかの事には目もくれないといったイメージで見られる。でも、ぼくはそんなのいやだな」「遊べる時に思い切って遊び、練習する時はそれに没入する。生活には、けじめをつければいいと思うんです」

勉強はというと、「好きな学科なし」「宿題なんかやった事ありません」やっぱり世界王者になったから、自信を持って言えるのでしょうね(~~)サラリーマンになる気なんか、全然なかったんだそうです。

普段から、昼寝を含めて10時間は寝ているとも語っています。寝る子は”強くなる”ですね。写真は、世界王者同士の激突、世界S・フェザー級王者・小林 弘 (SB中村)選手とのノンタイトル戦から。

「洋服なんか、まとめて作るといっぺんに100万円くらい使っちゃう事もある」
おしゃれでしたから、背広は50着持っている。

引退後は、目黒駅前にイタリアン・レストラン”カプリ”をオープン。親分肌の西城選手の下、協栄ジムOBがよく集まって来るお店でした。すぐに腕相撲大会が始まるお店だったと記憶しています(~~)

私も若い頃から、大竹マネジャーに連れて行ってもらいました。そのお陰で、たくさんの先輩方と出会える機会にも恵まれました。

それにしても、カプリの”ガーリック・ミート・ピザ”は美味しかった。大竹マネジャー、未だに言います。「あれは、うまかった」

そんな訳で、レシピを教えてもらった大竹マネジャー。協栄ジムOBの平丸選手が経営する、洋風居酒家”平丸家”(鷺宮駅前)に行った時、あまりにピザの味が寂しかったので(~~)、この”ガーリック・ミート・ピザ”を作って見せました。

これを食べた平丸店主、「これはうまい」「どうやって作るんですか?」「こんなの簡単に出来るんだから、これ出した方が絶対いいよ」

つぎ行ったら、しっかり”お勧めメニュー”にのっかっていました。今では、”平丸家”の看板メニュー。「よく出ます」(~~)

元世界王者の佐藤 修 選手、坂田健史選手等もこれはお替りして食べてました。協栄ジムの伝統は、こんな所にも受け継がれています。

続く・・・。
日本人選手として海外で初めて世界タイトルを奪取した西城正三選手。メインの経験もなく、全くの無名から渡米後わずか9ヶ月での偉業達成、凱旋帰国した西城選手は”シンデレラ・ボーイ”と呼ばれました。

3年前、無一文でアメリカへ渡った西城選手は、ラウル・ロハス(米)から世界タイトルを奪ってからの3年間で、6度のタイトル戦とノン・タイトル戦8試合を行っています。

手にしたファイトマネーが、2億とも3億とも言われています。当時、プロ野球ジャイアンツのスーパースター・長嶋茂雄選手の年俸が4千万円。この7年分を僅か14試合で西城選手は稼いだ訳です。

引退後、手元にある財産までが掲載されていますが、まず、目黒の完成したばかりの自宅は、時価3千5百万円以上。近くの賃貸マンションが、やはり3千万円以上。このマンションから上がってくる家賃が、1ヶ月に40万円。

これだけで、2、3家族は充分に暮らして行ける金額。鹿島臨海工業地帯に所有する200坪の土地が、時価にして2千万円をはるかに超え、車も外車ポンティアックとニッサン・スカイラインを所有。それに加えて、数千万円の貯金とあります。

いかに人気者であったかがわかる数字ですね。まさにシンデレラ・ボーイ。現代では、野球選手の年俸はビックリするほど高くなり、サッカー選手ももの凄い。これに迫るのは亀田選手くらいしかいないのでは・・・。

亀田選手には、野球選手に負けないくらい稼いでほしいものです、ボクシング人気復興の為にも。

西城選手の世界タイトル挑戦時からコーチを務めたのが、スタンレー・イトウ氏です。イトウ先生を評して西城選手はこう語っています。「ボクシングだけでなく、全てをまかせられる人」

当時のボクシング界で一番気が強く、ガッツがあると言われている西城選手が全幅の信頼をおいていたのがイトウ先生でした。

イトウ先生は、なくなられたエディ・タウンゼント氏とは大の仲良しで、西城選手の最後の試合、対アントニオ・ゴメス戦では一緒にセコンドを務めました。

1971年8月号のゴング誌には、”SS時代”の到来と出ています。WBAのフェザー級王者に君臨する西城正三選手と、WBC世界フェザー級王者の柴田国明(ヨネクラ)選手の事です。

フェザー級王座を日本が独占していた時代があったこと、知らないファンの方も多いのではないでしょうか。当然のように二人の対決が待たれましたが、これは実現せずそれぞれ王座を明け渡してしまいました。

フェザー級王座を失った後、ハワイでS・フェザー級タイトルを獲得した柴田国明選手をコーチしたのはイトウ先生でした。その後、エディさんが柴田選手のコーチにつきます。

協栄ジムでは、早くから若手選手、トレーナーをハワイ、ロスに送り込み修行させていました。結果、アメリカに住み着いてしまった人もたくさんいます。

藤田 忍 選手は、約3年間ハワイにいたそうです。歴史あるイトウ先生宅の合宿所には、ファイティング原田選手、ガッツ・石松選手等の世界王者から無名選手まで、最大16名がいたことがあるそうです。

元祖”ベンケイ”のベンケイ・藤倉選手(故人)の実弟、藤倉 明 選手もアマからプロ転向しハワイでデビューしましたが、「ボクシングなんかやってる場合じゃない」(~~)と思い、いかにしてハワイに住み着くかを必死で考えたそうです。その努力の甲斐があり、今ではハワイ暮らし。いいですねぇ〜。(~~)

写真は、元日本ミドル級王者・ベンケイ藤倉選手の雄姿。この当時かなりの人気がありました。現代の”浪速の弁慶”にはかないませんが(~~)

”ボクサーになってハワイへ行こう”先代金平会長が打ち出した、日本人ヘビー級選手育成計画です。デビュー前は、なんと毎月3万円の小遣いつき。全く夢のような話と、紹介されています。

デビューはハワイで、それまではハワイで練習させる。ハワイのサム・一の瀬プロモーターの了解を取り付け、北海道で35人の練習生(ヘビー級)を集め、旭川に道場も作ってしまったとか。

続く・・・。

後楽園ホール 坂田VS吉田

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「ジャッジ、カツラギ59−58、吉田」

思わず大笑い、後に怒り。「何だそれ〜」「何考えてつけてんだよ」

残る二人は59−57、60−55坂田。6ラウンドテクニカル・デシジョンの結果です。試合後、大竹マネジャーが審判部の内田顧問にクレーム。「選手は命賭けてやってるんだから、しっかり見てくれないと困る」

結論としては、「ああいうのは使えないよ」「使わない方がいい」。これジャッジの事ですね。必ず振り分けの世界戦ルールと、振り分け基準が明確ではない日本の付け方の違いが、あいまいすぎるからだと思うのですが・・・。

4ラウンドの内1回は”10−10”と付けるのが、暗黙の日本式採点スタイルになっていると感じていますが、そうでない場合も多々あり、スコアが割れるケースが再三です。

全てのラウンド振り分けるのか、ポイントを得る基準を満たしたラウンドのみ、その選手にポイントを与えるのかを、明確に示した方がファンの為にも良いんではないでしょうか。

さて試合の方は、試合開始から吉田選手が足を使いながらサークリング、そしていきなり右アッパーを振るう。「パーラやろうとしてるのかなぁ」「いきなりあんなの当たる訳ないだろ」

1回目、坂田選手いい動きでした。「最近じゃぁ一番いいな坂田。今日は調子いいだろう」「中ではずして、たくさん打って来い。相手、大振りだから」

2回目終盤、バッティングで吉田選手が左目上をカット。「あんまり突っ込むと損しちゃうよ。頭気をつけて、ジャブ使って動け」前半では、負傷ドローになってしまいます。

3、4回目と同じような展開。坂田選手パンチは貰わないが、攻撃も単調、単発。確実に当ててはいますが、吉田選手は体の力も強く、くっつけば押してきます。

吉田選手の側にしてみれば、2回目にカットした傷で止められる事も考えられ、飛ばすだけ飛ばそうという感じではなかったでしょうか。ワイルドなパンチを振り回してきます。今日の吉田選手、やる気満々で闘志も十分。

5回目、吉田選手が右目の上もカット。疲れを見せ始めた吉田選手。「だいぶ疲れてきたな」「あれだけ大振りで、空振りしたら疲れるよ」

この回のインターバル、坂田選手が「やりにくいですね」と、漏らす。すると大竹マネジャー「何言ってんだ、いつまでもいい人やってんじゃあないよ」「相手に合わせてばっかりいるなよ」「くっついたら押しのけてでも打って来い」

これで気合が入った坂田選手、攻めの回転が速くなります。しかし、ここでドクターストップ。試合終了となってしまいました。ちょっと尻切れトンボみたいな結果になってしまいました。残念・・・。

セミに登場の松崎博保選手は、長岡知治(花形)選手と対戦。試合開始早々のジャブの突き合いで、長岡選手が勝る。「オイ大丈夫かよ」「ジャブ当たんないとまずいねぇ〜」

しかし1回目終盤、左フックカウンターで見事にダウンを奪います。以後、ねっちりしつこく松崎選手らしい攻めで、長岡選手を圧倒。この日は、左フックが良く当たる。上下の打ち分けもうまくなってきました。

そして8回目、連打に継ぐ連打で追い掛け回し、最後は左フックカウンターがドンピシャり。これはグッド・タイミングでした。長岡選手、しばらく立ち上がれず担架で退場となりましが、長岡選手の健闘も光りました。

元OPBF・Lフライ級王者で世界タイトル挑戦経験もある山口真吾(渡嘉敷)選手が、9ヶ月ぶりの再起戦。対戦相手は、山口紳一(F・I)選手。前戦で初黒星を喫しましたがここまで8勝(2KO)1敗2分。

”トカちゃん”こと渡嘉敷勝男会長を練習生から手解きし、入門から僅か3年で世界王者にまで導いたのが、F・Iジムの福田洋二会長。この試合、師弟対決となりました。こういうのは異常に燃える渡嘉敷会長です。

が、1回目真吾選手がダウンする波乱の幕開け。「舐めてんのかなぁ〜」

2回目以降、真吾選手がこの失点を取り返そうと追い掛け回します。「ラスト取れば負けはないだろう」と見ていましたが、最終8回に真吾選手が意地でダウンを奪い返し、猛攻する中で試合終了。

採点は真吾選手にダウン以外の失点はなく、文句なしの判定勝ち。

今西秀樹(ワタナベ)選手と対戦した中辻啓勝選手は、前半こそスピードと手数で上回ったものの、次第に今西選手のプレスに巻き込まれ、後半は全てのラウンドを失って判定負け。

最後までスピードと手数で対抗したかったところですが、キャリアの差でしょうか。今西選手の方がポイントの取り方知っていましたね。

佐藤洋太選手はF・Iジムの殿村雅史選手と対戦。お互い7勝2敗同士。4KOは佐藤選手、殿村選手は3KO。

この試合は6回戦。5ラウンドまでは間違いなく佐藤選手優勢。そしてラストラウンド開始。

開始早々から殿村選手が猛攻、ロープを背に耐える佐藤選手。逃げ回る足取りも怪しいくらい効いている。あと1発入ればストップされても仕方のない場面が続く中、試合終了。

判定は文句なく佐藤選手でしたが、コーナーでの様子がおかしい。コーナーポストにもたれている上体が、横倒しに・・・。そのまま担架で退場となりました。その後佐藤選手、幸い大事には至らず、回復しました。良かった。

この日、二人の選手が担架で退場しました。命懸けで戦っている訳です選手達は・・・。

そんな事もあって冒頭の大竹マネジャーの言葉になるわけです、「選手は命賭けて戦っているんだから・・・」「これじゃぁ、勝負賭けられないよ」

ハワイで行われたスパー大会の写真を、帰国した西山君が持ってきてくれました。

会場はWaimanalo District Park。屋外特設リングといったところでしょうか。何かいいですねぇ〜。

ハワイ合宿中の小野木協栄(カナエ)君と、西山 剛 君がグローブを合わせたのは、ブルーノ・エスカランテJr East Oafu B.C 所属。下写真は、スパー中の小野木君。

エスカランテJrは、ゴールデン・グローブ・ハワイ州代表で、大変な人気者だったそうです。対戦相手がゴールデン・グローブのチャンピオンと聞いて、かなりビビッていた二人です(~~)

スパーリングは倒される事もなく(~~)無事終了。しっかり記念撮影までしてきた二人でした。上写真、小野木君。下写真、西山君。

ハワイは、今でもアマチュアは盛んです。 スパー大会、試合は毎月行われています。今後我々も、アマ、プロ試合。スパー大会等をハワイでプロモートして行こうという計画があります。

”スタンレー・カップ”開催が目標です。小野木君は、6月25日の帰国までハワイ合宿で鍛えています。

さて、その昔シンデレラ・ボーイと呼ばれた男、元世界フェザー級王者・西城正三選手は、どんな気持ちで海外遠征へ旅立ったのでしょうか。世界タイトル挑戦を目前に控えた西城選手、先代金平会長の心意気は・・・。

西城「ボクはやっぱり行く前から狙っていったんですね。それで一生懸命やったつもりなんです。練習も朝走って・・・向こうは気候がいいから雨で休むなんて事はないですね。いつでも朝走って、結局スタミナに自信がついて・・・前はスタミナ、あんまり自信なかったですね」

ハワイでも雨降ったら、「ロープ1時間」なんですが、20分ほど跳んでたら天候回復。よしこれからスタートなんて事、坂田選手やってました。(~~)もちろん文句は言いません。自分の為ですからね。

西城選手の海外第1戦目、初のメーンエベントはメキシコ・マサトランで行われました。野天の試合会場、みんなピストル、ナイフを持っているような場所。控え室に電球は無く、外でバンテージ巻いてリングに上がる。

金平「そういう状態の中で、西城は全然あがらなかったですからね、この野郎勝ってやろうという気持を非常に強く持っていたから、これは気の強いやつでいいなと・・・」

なぜ人気が出たか?

金平「お客さんが喜ぶ試合をするんですよ。適当に打っていって、適当に休んで、試合の盛り上がりを作るんです、この選手は。だからいっぺんに人気が出ちゃったわけです」

ピメンテル第1戦を終えて・・・。

金平「西城が負けたことでもめたんですよ。ホームタウン・デシジョンだということで。で、むしろ同情を買ったというんですか。新聞雑誌とかみんな騒ぐから世論が高まって、リターン・マッチをやればまたプロモーターが儲かるということになって、やらせた訳です」

「そうしたら今度はダウンを奪って文句なしに勝った。そうしたらプロモーターが、今度はロハスとやらせたら絶対儲かるというような、要するに人気選手になったわけですよ、西城自身がですね。だからこれは、誰の力でもないと思うんです」

ピメンテルとの再戦にハッキリと勝ち、実力で世界ランキング入りを果たした西城選手に、世界王者ロハスとの対戦話が・・・。

せっかく世界ランカーになった西城選手を、ここで潰したくなかった先代金平会長は「まだ早い、帰って来い」

「ロハスと是非やらせて下さい。それほど怖い選手じゃありません。勝つ自信があります」とキッパリ言い切った西城選手。

かつて西城選手は、新人王も取りそこね、試合でアゴの骨を3ヶ所も折るアクシデントも経験しています。それでも・・・。

金平「本人の運が強かったんだろうと思うんです。ロハスが負けたために、また西城の人気が一段と高くなりまして、ロハスの方ももう一度やればはっきり勝って見せると言うしね」

「まぁこういうことは日本でもまねたほうがいいと思うんですけども、人気選手同士が3回、4回やってもいいわけですね。ファンが望むならば。やっぱりファンあっての試合ですからね」

ロスのアパートでは、宮下(沖ジム会長)さん、高橋(元協栄ジムマネジャー)さんと3人の共同生活。料理は、高橋さんがうまかったそうです。

試合の実現へ向けて・・・。

金平「もうだいぶ条件は煮詰まってきました。挑戦者として非常に満足する状態まで来ているんですけどね。だいぶ有利な方向に。やっぱり勝ったときの事を考えなくちゃいかんですしね」

挑戦について・・・。

金平「これのお兄さんと相談して、キャンプを張って悔いの無い状態でやらせたいと思います。挑戦者ですから勝負賭けるときには大いにかけちゃいますね、ボクの場合は。で、判定で負けてもダウンでもドローでも1ポイント差でもノックアウトされても負けだから、負けるのなら負けでいい、全てを出して堂々と戦っていきたいと思いますね」

「ちょうど西城が、ボクの考え通りの条件に当てはまった選手ですからね。選手によっては、また違ういき方を考えますけれどもね」

西城「やっぱり一生懸命・・・。何しろ一生懸命やりたいと思います」

金平「それでいいんだよ(~~)俺の言うとうりやれば勝てるんだ」

こうして西城選手は世界タイトルに挑み、見事判定勝利。日本人初の海外での世界奪取を成し遂げました。が、アメリカへ渡って僅か9ヶ月の出来事です。

この世界タイトルマッチの西城側コーナーに、スタンレー・イトウ氏の姿があります。”影の軍師”としてその勝利に大いに貢献しました。

それにしても最後のやり取り、大竹マネジャーと坂田選手の会話、そっくりそのままのような気が(~~)

続く・・・。

亀田兄弟・協栄ジムの歴史Ⅵ

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1968年12月号のゴング誌に於いて、日本人選手として初めて海外で世界タイトルを奪取した、シンデレラ・ボーイ世界フェザー級チャンピオン・西城正三選手が”救世主賞”なるものを受賞。

最近のボクシング界は低調そのものの実情にあった・・・。テレビの視聴率は落ちる一方で一ケタ、つまり10%台以下なんてのはざらになってきた。

そんな時の西城の誕生だ。シンデレラ・ボーイを飛び越えてボクシング界にとっては”キリスト”的役割を果たしたといっていい。今度西城会長にあったら”キリスト”様と呼ばなくては(~~)

「オレはあまり生のボクシングは見たことはないが、西城のには行ってみたい」こんな声があちこちで聞かれる。

今、亀田兄弟はまさにボクシング界の救世主、ボクシング人気を盛り上げてくれています。亀田選手の前座でやりたい選手もたくさんいます。

元祖”キリスト”(~~)西城正三氏も亀田兄弟については、「他とは違ったものを持っている。強くなるよ」と、イトウ先生に語っています。

日本でメーンエベンターをやる機会も得られず渡米したのが、1967年12月。僅か9ヶ月後に世界王者になった今。手のひらを返したように”チヤホヤ”してくるマスコミ、そのほかの人達に「ざまあ〜みろ」と言ってやりたい。

渡米半年後の6月6日、世界フェザー級王者・ラウル・ロハス(米)とのノンタイトル戦に挑むに当たっての心境は、「あの時はしめたと思いましたね。世界チャンピオンと試合が出来る。日本にいた時は考えられなかったことだもの・・・。」

上写真は、本番の世界戦ロハス挑戦のリング上での一コマ。さすがに緊張は隠せない西城選手。観衆約3万人。左から先代金平会長、イトウ先生、クロフォード・トレーナー、正右トレーナー。

「負けてもともと、そう思ったらこわさなど感じませんでしたよ。結局はあのノンタイトル戦が、ボクに世界のチャンスをあたえてくれたことになったんですね。でも、今考えると、よく勝てたと思いますよ。なにしろ世界チャンピオンでしたからねぇ」

この試合のファイトマネーは、なんと7千5百ドル(270万円)。日本のリングの27倍とあります。そんな西城選手が協栄ジムに入ったいきさつは・・・。

西城選手の5歳年上の兄、正右氏は、西城正男というリングネームで野口ジムでプロ生活を送っています。あまりパッとした戦績ではありませんでしたが、先代金平会長と同じプログラムでリングに上がった事もあります。

この正右氏に連れられて野口ジムに行き、ベビー・ボクシングにいそしんだ西城選手でしたが、正右氏がリング生活に見切りをつけると、自然ベビー・ボクシングからも足が遠のく。

中学時代の西城選手のあだ名は”もやし”。「当時の正三を思うと、とても今日のたくましいボクサーに成長するとは考えられなかった」

選手としてのボクシングの夢を”弟”に託そうと決めた正右氏は、正三選手を連れて野口ジムに通いだす。まだ海のものとも山のものともわからない一練習生が、トレーナーつきでジム通い。

これは過去のボクシング史上例を見ない事でした。この時代では”画期的”スタイル。何か、亀田親子とも似ていますねぇ〜。

クラブ制度の日本ボクシング界の中、トレーナーつきの練習生が現る。選手とトレーナー、二人でジムに現れ、練習が終わると二人で帰る。当たり前なスタイルなんですが、日本のクラブ制度ではタブーとされていました。

他のトレーナーとの摩擦等もあっていずらくなり、3ヶ月ほどで野口ジムをやめる事に。その後は日大の道場を借りさしてもらったが、これも長くは続かなかった。

「どうする兄貴」「そうだなぁ・・・」

この当時、小林 弘 選手を要する中村ジムが”トレーナーシステム”を採用した、新しいジム経営に乗り出したらしい。

「弟の面倒を見たいんですが、練習させてもらえませんか」「トレーナーならうちにいっぱいいるよ」ここでもピシャリと断られた。

ここで正右氏の頭に思い浮かんだのが、当時、人気絶頂の海老原選手を抱えていた、野口ジムの先輩、先代協栄ジム会長・金平正紀氏の事。

「断られて元々じゃねぇか」「やはり日本では、フリーのトレーナー専門でいくのは無理なのかもしれない」悲観的な気持ちを持ったまま二人は、金平ジムの門を叩く。

1963年晩春の頃の事。恐る恐る希望を申し出た二人に思わぬ答えが。「あ〜、いいよ、いいよ。道場は空いているんだから、いつでも好きな時に使いなさいよ」

先代金平会長は、ジムの後輩が困って頼ってきたのだから、力になってあげようと場所を提供してあげた。まさか、将来を予測しての事ではあるまいが・・・。

写真は家族、後援者と勝利を喜ぶ西城選手(左下)、その隣は正右氏。

この巡り会いが、後の世界王者・西城正三選手誕生の第1歩となりました。”来るものは拒まず、去るものは追わず”今でも協栄ジムの決まりですね。

続く・・・。

亀田兄弟・協栄ジムの歴史Ⅴ

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「ツージャブ」「ダッキング」「ボディストレート」先代金平会長の、シンプルな”アドバイス”。いつもこれだったような気が(~~)

世界チャンピオンを1人育てる事は、宝くじに当たるよりも難しい。こんな世界で、生涯8人の世界チャンピオンを誕生させた先代金平会長。その言葉と共に足跡を振り返る。

”本当の努力とは”「みんな努力という言葉を間単に使い過ぎるよ。ボクに言わせてもらえば、実りのある努力だけが本当の努力であって、いくら努力したといっても、それが実らないものだったら努力じゃないね」

「確かにみんな努力はしていると思う。しかし、それが本当の努力だったら、もっともっと、みんな実りあるものにしていると思う。ところが、努力しているわりに実りがないじゃないか。それは本当の意味での努力をしてないからだよ」

”ビッグ・マネジャー”先代金平会長が好んで使った言葉です。

「何も儲かっているからといってビッグ・マネジャーというわけじゃない。自分の選手の試合交渉は全部自分でやる。場合によっては自分から外国へも飛んで行く。言葉なんか問題じゃない。自分の選手のプラスになることだったら骨惜しみせず、体を運んで直接交渉する。それがビッグ・マネジャーの条件じゃないかね」

かなり流行っていた、トンカツ屋さん”とんきん”を売り払って地味な生活と別れを告げ、海老原選手、山神トレーナーと共に質屋通いをしながらの”金平ジム”の船出。

海老原、西城両選手の活躍等により、大手企業”協栄物産”の後援を受け、名称を”協栄ジム”に改名。

「人はボクの事をツイていたという。まず海老原とめぐり合ったことがラッキーだったという。しかし、ツキだけで世界チャンピオンが作れると思ったら大間違い。結果だけを見てラッキーだという前に、そのラッキーを掴むまでの努力を知って欲しい」

ビジネス面は冷たく割り切っても、義理人情の厚さは人後に落ちない。同業者を敵に回す事があっても、決して憎まれない商売上手。

海老原選手がバンコクに乗り込んで、ポーン・キングピッチとのリターンマッチの時、エラワンホテルの自室に亡き恩師、故野口進会長の遺影が飾られていた。海老原がリングに向かう前、金平会長は遺影の前に立ち、しばし合掌していた。

写真は、左から先代金平会長、福田先生・F・Iジム会長、高橋マネジャー。

「自分の選手を常にPRする。誰にも親愛な友情を持って接する。この精神を持ち続け、ビジネスはビジネスと割り切って進めば必ずいい結果が生まれる。選手に儲けさせてやろうと努力する事が、結局は自分自身を儲けさせる事になる」

「何事をやるにも背水の陣を布く、決して手は抜かない。これがボクの信念だよ」

以上は、先代金平会長が4回戦の現役ボクサーだった頃から親交がある、元内外タイムス記者・中川幹朗氏が、プロレス&ボクシング誌1971年6月号に、”世界チャンピオンの育て方教えます”と題して投稿されている記事から、一部を引用させていただきました。

「人間すわってだまっていたんではカネになりはしない。その点、カネさんはえらいよ。何でも思ったことをやる行動力を持ってるからね。あれがあの人のツキを作っているんだよ」と、国民→パルンジム中村正美会長(故人)。

この中村会長のご子息、中村 隆 氏も協栄ジムでトレーナーとして活躍しました。写真左、中村先生。右は、堤先生。

今では白井・具志堅ジムでトレーナーを務める中村先生。現会長、具志堅選手とのミット打ち。

海老原選手との出会いが、先代金平会長の運命を変えた。「かわいい弟みたいな奴だった」海老原選手と。

先代金平会長の事を、ボクシング界の田中角栄と呼ぶ具志堅用高氏。ボクシング界の小沢一郎だと先代金平会長は自称。さて、どっちでしょうか。

続く・・・。

亀田兄弟・協栄ジムのルーツⅣ

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海老原選手の活躍で協栄ジムには、「強い男になろうと一年発起」した宮下政生(沖ジム会長)選手が入門。

高校時代からボクシングを始めたそうですが、かなりの”やんちゃ”だったそうで、”ガチンコ”の会長はまさに地で行ったわけですね。(~~)

昔、札幌での試合、古口 哲 (Sスポーツ)選手のチーフセコンドに付いていた宮下トレーナー。インターバルで、”ビンタ”飛ばしてました。「何やっとんだワレ〜」(~~)その甲斐あってか、古口選手は勝利しました。

続いて、世界フェザー級王者となる西城正三(ナカハマジム会長)選手もトレーナーの兄・正右氏と共に、この当時では画期的な選手とトレーナーのコンビで入門。

現マネジャーの大竹重幸選手も、”シンデレラボーイ”西城選手に憧れて中学1年生で入門。沖縄から元祖”沖縄の星、康恒&フリッパーの、上原兄弟。高校時代、上原家に下宿していた具志堅用高選手も協栄ジム入り。

そして、具志堅選手の試合をテレビで観戦「オレが、こいつをやっつけてやる」との決意で、ボクシングを志した渡嘉敷勝男選手が、同門対決はできないことを知らずに協栄ジムに入門。(~~)

このように人が人を集めて、名門”協栄ジム”と呼称されるようになりました。最近ないのが寂しいですが、OB会には地方からも大勢の元選手、関係者が集まります。

そしていつも海老原選手の事を熱く語る、”とんきん”時代からの盟友、”鬼の山さん”(~~) こと、山神淳一トレーナー(現山神ジム会長)。

「山さんも丸くなったよなぁ〜。昔は怖くて、山さんの前では何もしゃべれなかったんだから」「よぉ〜、大坪元気かぁ〜」いきなり直立不動になる大坪先輩。やっぱり怖い(~~)

この時代に”鬼”と呼ばれていた名物会長は、笹崎ジムの先代笹崎会長。しかし、60を超えて丸くなってきたとの記事があります。題して”鬼の笹崎”はもうろくしちゃいない!

ファイティング原田(元世界フライ・バンタム級王者)選手を、これでもかこれでもかというくらい鍛え抜いた笹崎会長。

「ボクシングは格闘技だ。たしかにテクニックは尊重するが、そればかりに頼っていてはいけない。そのうらにはいつでも根性、どんなときにもくじけない闘志が伴っていなくてはならない。その根性をかりたてるためにオニになって挑発する」

「原田は、あれだけの功績を残した選手だけに、よく私の挑発に反発してきてくれた。いま思っても頼もしい限り。原田にはすばらしい根性が息吹いていた。そこへいくと、今の選手は反発が弱い。これも時流のせいかと諦めかけたこともある。しかし、思い直して行動で示す根性論を話し合いで諭す方法に転換することに決めた。このへんが”オニの笹崎変じてホトケの笹崎”と写るんじゃないですか。私の本心は昔から一筋ですよ」

渡部勇次郎先生に弟子入りした笹崎会長。「先生の教育方針が”習うより覚えてみろ”だったから仕方がない。こうなると歌の文句じゃないけれど”挫けちゃならぬ”と激励するのは自分自身しかない。ずいぶん苦労したけれど、自分に打ち克つ根性という根性だけはみっちり叩き込まれたものです」(以上、ボクシングマガジン誌1976年12月号から抜粋)

現代の”牛若丸”は、亀田兄弟と共に売り出し中の渡部信宣選手ですが、昔、ファイティング原田選手の実弟が、牛若丸原田のリングネームで日本王者、世界ランカーとして活躍しています。

ちなみに”弁慶”は、ベンケイ藤倉選手(故人)が日本王者になっています。このベンケイ選手の実弟も期待された選手で、協栄ジムからプロ入り、ハワイのリングでデビュー。そしてハワイに住み着くことを決心、現在はハワイ在住。

ボクシングは心半分。「オレは”心を”教えているんだよ」大竹マネジャーも、やっぱり”鬼”ですかねぇ〜(~~)坂田選手、鍛えられています(~~)

続く。
  8日、亀田家の3男和毅君(14才)が、世界ランカー坂田健史選手と3ラウンドのスパーを行いました。

マスコミも大挙駆けつけ、TV中継までされる凄さ。さすがに、打ち込まれはしましたが、世界ランカーにあれだけ立ち向かっていける和毅君。将来が期待出来ます。

14才といっても、ランカークラスの力はありますね。体も良く鍛えられているし、とても14才とは思えません。3年後が、本当に楽しみです・・・。

この日のスパーは、きっと素晴らしい経験になった事だと思います。

さて、アカバロ敗戦後、7ヶ月のブランクを経てカムバックした海老原博幸選手が、不死鳥として甦ったのは69年3月30日。突然のアカバロ引退の後を受けて、札幌で行われた世界フライ級王座決定戦。

再起後5勝(3KO)で、世界ランキング3位を維持していた海老原選手は、2位のホセ・セベリノ(ブラジル)を判定で破り5年振りに世界王座カムバック。現役最古参29才での快挙。

しかし、このカードも簡単に決まったわけではなく、紆余曲折の末、ブラジル・サンパウロで開催が決まっていた試合を日本に持ってきました。先代金平会長も今度こそはラストチャンスと、海老原選手の為に東奔西走。

先代金平会長が、セベリノのA・カッツェネルソンマネジャーとの国際電話で、この試合の正式発表に漕ぎ着けたのは2月22日の事。ラストチャンスへの執念が伺える・・・。

この試合でも海老原選手は9回左手を骨折。しかも、試合前に痛めていた右手には”麻酔”をうっての戦いでした。しかし判定は、文句なく海老原選手へ。
日本でやれて良かった。

この時は、初めてリングで泣きました、海老原選手。写真左は、小川トレーナー(Jスポーツ・マネジャー)、拍手を送っているのが、スパーの怪我で引退した上甲トレーナー。

初防衛戦はこの年10月19日。この挑戦者も揉めに揉めた末、急転直下、比国の世界2位バーナベ・ビラカンポに決定。試合は大阪で行われました。ちなみにこの試合のプロモーターは、大阪帝拳ジム吉井 清 会長。

大阪では3度目になる世界タイトルマッチ。この試合の海老原選手のファイトマネーは、7万ドル(2520万円)。オプション無しで勝ったからこそですが、この時代を考えるともの凄い金額ですね。

ケガに付きまとわれた海老原選手。この試合前のスパーでも、左ひじと首筋を痛める事に。そして試合開始早々、その左肩が抜けるような異常にみまわれ、以後は左手が上がらない状態で戦い続ける事に。

4回終了後、セコンドに自らの左肩の異常を訴えた海老原選手。「柔道の先生を探して来てくれ」と、告げると共に悲壮な決意を告げました。

「どれほど打たれても、絶対にタオルを入れないでね。オレ、KO負けだけはしたくないから」

コーナーに帰るたびに、「タオルは入れないで」と訴え、最後まで打たれ続けた海老原選手。ラストファイトは終わりました。

海老原選手、10年間72戦のキャリアの中に”KO負け”は一つもありません。そして36KO勝ちの記録は、”拳聖”ピストン堀口選手に継ぐ記録です。

こうして、強打者ゆえに両拳の怪我に泣かされ続けてきた、海老原選手のボクサーとしての戦いは終わりました。

「僕は、たとえ明日食う米がなくっても、やりたくないことはやらない」引退後の海老原選手の言葉ですが、何かわかるような気がします。

海老原選手の活躍と共に先代金平会長は、この10年間で”協栄ジム”の土台を作り上げました。

馬小屋を改造したジムからスタートしたジムも、この頃には、立派な構えになり、西城正三選手が世界フェザー級タイトルを獲得、シンデレラボーイとして人気を博していました。

そういえば、”鬼の笹崎”と言われファイティング原田選手を育てた、笹崎ジム先代笹崎会長も最初は馬小屋を改造したジムからスタートしています。面白い偶然なんでしょうけど・・・。

原田選手と対戦後、海老原選手は原田選手とすっかり仲良しに。同時期にロスに行ったり、ハワイに行ったり、交流も盛んだったようです。「ロスで試合して、ハワイで休養してから、またロスで試合がしたいね」なんて、話し合ったりしています。

協栄ジムでは、山神淳一トレーナーが”鬼の山さん”として恐れられていたようです。(~~)先代金平会長は、海老原選手からも”カネさん”とか言われていたようで、やさしかったのかな?この辺がうまいところでしょうね。

現在、藤沢市で山神ジムを主宰する山神淳一会長。OB会の席で、海老原選手の事を語る山神会長の口調はいつも熱い。手塩にかけた選手に先立たれてしまった山神会長の気持は、自分の子供に先立たれたのと同じ気持なのでしょう。

山神会長、今、素晴らしい才能を持った若いボーイに夢を見始めています。
先日、藤沢市の山神ジムから新宿の協栄ジムまで、そのボーイを連れてスパーリングに訪れた山神会長の目は輝いていました。

今後が楽しみですね。大竹マネジャーも、「いいよ、あの子はおもしろいよ」と、語っていました。 

続く。

亀田兄弟・協栄ジムのルーツⅡ

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いよいよ今秋にも世界タイトル挑戦が決まった亀田興毅選手。ターゲットはWBC王者・ポンサクレックのようです。

亀田興毅選手がWBC王座にチャレンジなら、同門の坂田健史選手はWBA王者・R・パーラとのラバーマッチに挑むのか。

パーラVS亀田も見てみたいが、パーラVS坂田は、もう一度あってもいいんではないでしょうか。まだ進化してますよ、坂田選手も。

いずれにせよ二人が目指すのは、協栄ジム初の世界王者・海老原博幸氏が保持していた、世界フライ級タイトル。

海老原選手は、新人王東日本決勝で原田政彦(ファイテイング原田)選手に敗れて以後、31連勝(20KO)で世界タイトルを奪った。

127秒KOで世界王座を強奪した海老原選手でしたが、オプション契約によるバンコクでのポーン・キングピッチとのリターンマッチでは、判定負け。

「日本に帰りたくない」「どうしても飛行機に乗らなければいけないのなら、その飛行機が落ちてしまえばいい」

再起するに当たり、「アメリカでならば試合する。しかし、どうしても日本でやれというのなら、引退する」「このままで、おめおめと日本人の前に出ることはできない」と、金平会長に訴えます。

そして、1964年1月23日のポーン戦から僅か2ヶ月後の3月19日には本当にロスで再起戦をやっています。根性ありますね。

全くおとなしそうに見える海老原選手ですが、中学時代から喧嘩は負け知らず、短距離もマラソンもトップを譲らず、体育の成績はいつも「5」。白井義男選手が、パスカル・ペレス(亜)に敗れる試合を街頭テレビで見て、「オレが、ペレスをやっつけて世界チャンピオンになってやる」と、決心したのだとか。

続く第2戦の相手がアラクラン・トーレス(メキシコ)21才。この時までの戦績は、23勝(16KO)2敗。海老原選手対戦する直前の試合こそ判定勝利に終わっているが、それまで13連続KOを記録。

先代金平会長が尊敬していたロスのプロモーター、ジョージ・パーナサス氏が、「なんとしてもこいつを世界チャンピオンに育ててみせる!」と、言わしめていたホープで、ロスに住むメキシコ人のアイドル。

地元のトーレス有利と見られていたこの試合は、4月30日オリンピック・オーデトリアムでノンタイトル12回戦で行われ、海老原選手が大番狂わせの判定勝ちします。しかし、この判定に怒ったメキシコ人ファンは大暴れ、会場は大荒れとなりました。

この試合を前に海老原選手は相当の覚悟を持って練習を積み、スパーでは、同門のライト級上甲駿一選手の肋骨3本をへし折り、上甲選手は再起不能。以後、トレーナーへと転進する事に・・・。

この上甲選手、ライト級でパンチもあって打たれ強い選手で、12連続KOの日本記録を樹立(当時)することになる、後の東洋ウェルター級王者・ムサシ中野(笹崎)選手と2度引き分けている程です。

以来、海老原選手はトレーナーとなった上甲選手の面倒を良く見て、ミカドジム創設に当たっても、上甲トレーナーは海老原氏と行動を共にしています。

さて、強豪トーレスを下した海老原選手はようやく日本のリングに帰ってきます。しかし、「もしまた世界チャンピオンになったら、この相手とはやりたくない」と、考えるほど強かったトーレスと”世界タイトル挑戦者決定戦をやる事になる。試合は65年5月7日、再びロスと決まりました。

「いやだと思う相手とやらなくてはならないということは、精神的にもの凄いプレッシャーがかかるもの。でも決まった以上は逃げられない。

”よし!あいつがどんな練習をするかは判らない。でもオレは絶対それに負けないだけの練習をして、それでも負けるんなら、それは奴がオレより強いってことで、それはそれで仕方がないんだ”

そう思ったら気が軽くなって、前回の試合の彼を思い浮かべ、アウトボクシングしながらのカウンター戦法に精魂こめた。この試合で負ければ、もう世界のチャンスはないの覚悟でロスにのりこみました」

トーレスは第1戦以後、5連勝4連続KO中で絶好調。試合は、最初からトーレスが1発を狙い仕掛ける。

「1ラウンド終了間際、左ストレートがアゴに決まってダウンを奪った。”これなら勝てる”と自信がつき、そして7回、3度のダウンを与えて私はKO勝ちしたんです」

「”今度は大手を振って帰れる、飛行機よ絶対落ちてくれるな”私は、空の上でこう祈った」

「私の70戦ほどの戦歴の中で、生涯忘れることのできないトーレス戦の想い出です」(カッコ内は、1981年2月号・ボクシングマガジン誌掲載の海老原氏の手記から抜粋)

海老原選手が、あそこまで考えるほど強かったトーレス。このトーレスも69年、世界フライ級の王座に付いています。

この勝利で世界タイトル挑戦の権利を掴んだ海老原選手には、翌66年3月東京で世界フライ級王者・オラシオ・アカバロ(亜)へ挑戦するチャンスが与えられました。先代金平会長も、バンコクの失敗は繰り返したくなかったのでしょう。

ところが、試合1ヶ月前にして左拳骨折のアクシデント。試合は、3ヶ月延期され6月。場所も東京から一転、ブエノスアイレス開催となってしまったのでした。何でも会長不在中での、軽いスパーでのアクシデントだったとか・・・。

地球の反対側アルゼンチン・ブエノスアイレスでの試合は、7月15日に行われました。海老原選手は痛めた左拳を再び骨折。右手一本で、王者アカバロを追いかけ回したあげく、僅差の判定負け。

その後9ヶ月のブランクを余儀なくされ、再起戦は翌67年4月10日。暫く世界へのチャンスはないだろうと思っていた海老原選手に、朗報が届く。

ノンタイトルで世界王者をTKOで破り、再戦でのタイトルマッチが決まっていた田辺 清 (田辺)選手が、網膜剥離で突然の引退。ピンチヒッターとして海老原選手に声が掛かったのです。

そこで先代金平会長は、それまで田辺選手をコーチしていたエディ・タウンゼント氏に海老原選手のコーチを依頼します。2度目のブエノスアイレス遠征には、先代金平会長、山神淳夫トレーナーに加え、エディ・タウンゼントトレーナーも動向。

8月12日ブエノスアイレス、ルナパークは3万人の大観衆。掛け率は5−4でチャンピオンやや有利。挑戦者側の作戦は、前半から攻めまくって倒すしかない。悲壮な決意のもとで試合開始のゴング。

肝っ玉が据わっている海老原選手は、試合開始直後から打って出る。1ラウンドからポイントを奪う。2回も優勢。

そして6回。打ちまくるさなか左拳を骨折、またしても右手一本で戦わざるを得ない状況に・・・。

海老原選手はセコンドを落胆させまいとして、この事実を告げず戦い抜き、セコンドが異変にきずいたのは、11回を終えての事だそうです。

アルゼンチン人3人よるこの試合のスコアは、297−296、298−293、294−296のスプリット・デシジョン。1人は2ポイント海老原選手の勝ち、王者につけた2人の内、一人は僅か1ポイント差。

「私は、スポーツマンだから結果については何も言わない」試合後の海老原選手のコメントです。

海老原選手、ここで終わらず不死鳥のように甦り世界王者にカムバックするのはこの敗戦から1年半後の69年3月の事です。

続く。 

亀田兄弟の日・揃ってKO!

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5日有明コロシアムが、1万人の大観衆で埋まった亀田兄弟初の揃い踏み。興毅、大毅の両選手共にKO勝利。その強打振りを見せ付けました。

大毅選手の次戦は、6月5日(月)後楽園ホールに決定。対戦相手は未定。世界タイトル挑戦を視野に入れる興毅選手の次戦は7月頃になりそうで、とりあえず次戦での世界挑戦はなさそう。

5月5日亀田の日の興行は、出場選手が亀田兄弟に”刺激”されたのか、全ての試合がKO決着。

大毅選手KO勝利後の”歌謡ショー”に続いて、ご存知”水戸黄門”のテーマで登場は、”江戸の牛若丸”日本ウェルター級4位渡部信宣選手。ここまで6連続KO中で、7戦7勝(6KO)。

対するは、前戦で渡部選手の先輩、加藤壮次郎選手から日本ランクを奪い取った、日本ウェルター級9位ルイス・オカモト(相模原ヨネクラ)選手。3連敗後2連勝中で、8勝(3KO)4敗。

加藤選手に勝ったリング上で、膝を付き十字を切るオカモト選手に、息子さんが駈け寄ったシーンは”感動的”でした。真面目な選手なんだなぁ〜と感心したものです。

前回の試合で、日本ランキング上位の西川選手を2回KOで切って落とした渡部選手には、KOの期待が掛かる。何でも、大毅選手とのKOタイム争いで早かった方が100万円貰えるんだとか。

渡部選手。好青年です。試合にしっかり気持ちを作れる選手です。試合は、開始ゴング直後から渡部選手が猛攻。得意の右フックで、オカモト選手のボディが早くも赤く浮かび上がる。

会場内の、倒して当然見たいなムードの中、2回目も強打を振るいまくります。ただ、単発でコンビネーションが少く、ディフェンスに重きを置き、カウンター狙いのオカモト選手を捕まえきることが出来ません。

きっとこういう戦い方をするとは考えていました。「どういうふうに攻めて来ますかね」と、試合前の萩原トレーナー。オカモト選手は、速攻型でパンチのある渡部選手に、試合開始直後から積極的に攻撃を仕掛けてくるタイプの選手ではない。

「ボクシングスタイル的にも、性格的にも、待機戦法、打ち終わりに打って、守る。序盤戦を凌いで、打ち疲れて来る後半勝負で来るんじゃないの」と、予測を説明していた通りの展開になって来る。 

試合開始から2ラウンドの渡部選手の攻めを見て、大竹マネジャー「今日は勝つんだよ。倒す事ばかり考えなくていい。たくさん手を出して、当てて来い」と、アドバイス。

オカモト選手、”頑張る”モードに入ってしまいました。それまでに倒せれば良かったのですが、こうなると”ヤッカイ”です。

試合が中盤に差し掛かる頃には、オカモト選手のパンチも単発からコンビでまとめて来るようになる。まともに貰ってはいないが、バランスが悪く印象が悪い。効いた効かないじゃなく、バランスを崩したところに打たれると、打った方にポイントが行く傾向がある。青コーナーからの、「ボディ打て」が聞こえる。

中盤戦、ポイントが気になりだす。「こんな事やってるとわかんないよ、ハギちゃん」と、大竹マネジャー。

インターバルでも、「相手もランカーなんだから、そんなに簡単に倒れないよ」「判定でいいんだから、今日勝たないと何も無いぞ」「腹打って、止まったら良く見て合わせる」「ただ振り回したってだめだよ」  

こちらの狙いも”ボディ”。7回、左ボディがガードの真ん中を抉り”ストマック”直撃。これは効きました。ガックリ膝が折れるオカモト選手。

チャンスと見て死に物狂いで手を出し、追い掛け回す渡部選手。しかし、オカモト選手も必死の抵抗、驚異的な頑張りでこの回終了。

「ラストだ、まとめろ。もう、まとめたら止めてくれるよ」「強いのはいいからまとめて手を出して来い」

いよいよラストラウンド。渡部選手ゴングと共に突進。真っ赤に腫れているオカモト選手のボディに右フック。まだ倒れない。狂ったような連打から、ようやくダウンを奪う。それでも立ち上がったオカモト選手でしたが、ここはストップ。

ラストラウンドKO勝ち。課題が見えた中、8ラウンドスタミナも持って、最後にあれだけ打てる力が残っていた事は、大きな収穫ではないでしょうか。渡部選手も、ガックリとしながら反省していました。

ドクターチェックに付き添う、相模原ヨネクラジム幡野会長へ、「ホントに良く頑張りましたね。びっくりしました」と、声を掛ける。

「ブラジルの男(オカモト選手はブラジル人)は、真面目。試合を捨てないよ」

オカモト選手、惜しくも敗れはしましたが、”子供の日”ビッグステージで”親父の生き様”を見せました。素晴らしい勇気でした。この日の大観衆も、きっとそう感じた事でしょう。

試合後、渡部選手、萩原トレーナーと雑談。相手の幡野会長は、渡部みたいなスラッガーで当時5戦5KO勝ち、その勢いでカーロス・エリオット(八戸帝拳)の持つ日本S・ウェルター級タイトルへ挑戦。

無敵と言われていたエリオット相手に、”あと1発”まで追い詰めながら、リキんでガス欠(本人談)。あと一歩で王座を逃している過去があった事等を説明。「そんな事もあったから、絶対ああやって来るよ」

大毅選手の前に登場は、12戦無敗の下田選手に土をつけ、日本S・バンタム級7位にランクされる瀬藤幹人選手。前戦の下田戦は、後楽園ホールを興奮の渦に巻き込んだ大変良い試合でした。サテ今日は・・・。

対戦相手の佐藤 昭 (花形)選手は、6勝(1KO)10敗。5連敗中ではあるが、その対戦相手には現日本王者・福原選手、ランカーの塩谷選手も含まれる。今年34才になるベテラン。

試合前の控え室。「カッコつけちゃいけないよ」「一生懸命、いつも必死にやるのがあんたスタイルよ」「力ずくはやるなよ」「自分の持ち味、わかってるんだろ〜」「34才で負け越し、バカにすると痛い目あうよ」「相手はやる気で来るからな、こういうのが怖いんだよ」

試合開始。瀬藤選手のスピードある左ジャブが、ビシバシ佐藤選手の顔面を捉える。確かに力量の差は”感じられた”が、問題はここから・・・。

ジャブから早い右、いわゆるワン・ツー。当たる。しかし佐藤選手は後ろへ重心を移し反応、ヒットはしているが決定打とはならない。本来は、ここからボディへ行ったり、下田戦で見せた右アッパー等へ繋ぎ、2度3度と仕掛けるべきであるが・・・。

やっぱり狙っている。ア〜体が半回転もする左フックの空振り。打っては相手の様子を見る。何の為、”カッコ付ける為”?(^^)

ジャブもだんだん少なくなる。単調な攻撃、力ずくのパンチ。だんだん相手にも読まれ、ついには4ラウンド終了間際、打ち終わりに左フックを1発合わせられる。

キャリアでうまくごまかしたが、かなり効いた。記憶も飛んでいた(^^)

ようやくジャブを思い出し、ジャブを多様し始める。しかし、その後のパンチは相変わらずで、「何やってんだあいつ」「ジャブ当たるんだから、もっとどんどんジャブ打たせろ」試合途中様子を見に来た大竹マネジャー。「バッカじゃないの」と、言いつつ去る。

この後のインターバルで口を出す、「瀬藤、お前の持ち味何なんだ」「お前の方がスピードあるし、パンチの種類もたくさんあるんだから、止まらないでミット打ってるつもりでやって来い」「左腹打ったら右アッパーだろ」「止まらないで打てばいいんだよ」「出来るんだろ」

6ラウンド開始早々、会場が沸く。私は、うがい係りなので、濡れたリングを拭いたり、タオルをバケツの氷水にしっかりつけたりと、下を向いて仕事。

チーフセコンド・ヒルマ先生の「行け〜、チャンスだ〜」の声を耳にリングを見上げると、これまでの瀬藤選手とはうって変わって、多彩なコンビネーションで滅多打ち。

レフェリーが割って入る。私は、ストップのつもりでレフェリーは入ったと思いますが、「ツー、スリー」とアナウンスに即されてカウントを取ったような感じ。

再開後も嵐の連打で、佐藤選手は防戦一方。やっとストップとなりましたが、あれは”危ない”なぁ〜。

「やったら簡単だろ」「出来るんじゃん」「な〜んで今までやんなかったの」(^^)

試合後の瀬藤選手、大反省。色々細かく説明してあげました。「もう長い事ボクシングやってて、大概の事は出来るんだから、あとは組み合わせじゃないの」「「自分の良さ、どのスタイルやったらチャンピオンになれると思う?」「名護ちゃんのようにパンチあったら、終わってたよあれ」

「大竹マネジャーがいたら、きっと、ああアドバイスしたと思うから口を挟んだけど、判るだろ」「でも、直ぐに出来る技術とハート、地力があるのは良くわかった。大したもんだよ」

「まだ時間早くて、会長見てなくてよかったなぁ」「見てたら大変だよ」「渡部なんか、試合終わって直ぐ会長にどやされてたぞ」「よかったなぁ〜」

「ホントですかぁ〜」(~~)ようやく最後に元気付いた瀬藤選手でありました。

試合後大竹マネジャーと共に、南砂町にある”茶夢亭”(ちゃむてい)へ。そこで、以上の試合後のミーティングを報告。「それはいい事やってくれた。ご苦労さん」で、ビールが入る事(~~)

このお店、前にもご紹介しましたが、”肉の万世”元チーフの石川和雄氏が総料理長を勤めます。味にうるさい石川さんは、素材にもこだわります。ここで出されている牛肉はもちろん和牛。何でも肉のクラスは、”万世”より上なんだそうです。ウ〜ン、美味しい。

上は、びっくりするほど美味しい”馬肉のコンビーフ”。ちょっと食べてしまった後ですが、仕入原価を聞いて思わず”写真”撮っちゃいました。(~~)

”肉の万世”は、大竹マネジャーが長く勤めていたレストランチェーンで、元世界王者のトカちゃん事、渡嘉敷選手、元日本王者の喜友名選手等もバイトしていました。

現在も、亀田選手はじめ協栄ジム選手の全てが、計量終了後”肉の万世”で食事します。サラダにジャンボハンバーグ定食。ランカーになると好きなものが食べられます。坂田選手は、ジャンボハンバーグ一筋ですね。これも性格かな(~~)でも、美味しい。もちろん、食事代はジム持ちです。

肉料理だけでなく、魚料理も美味しい”茶夢亭”は、東西線南砂町駅ジャスコ近くです。江東区南砂6−2−1。TEL03−3640−9838。このブログ読みましたで、何かサービスしてくれると思いますヨ。(~~)

石川さんのお話では、このお店でバイトしている子が、”ファミリー・フォーラムジム”に通っていて、最近プロテストに合格したんだそうです。

「応援行くからさぁ〜、亀田選手がやる時なんか試合できないの」「ウ〜ン石川さんの頼みなら、考えますよ。門田会長もいい人ですし」「ホントに出来んの」(~~)

「石川さんには、渡嘉敷も喜友名も協栄でお世話になった選手もたくさんいますから、何とか会長に相談してみますよ。石川さんの頼みですから」

「そうか悪いなぁ〜。無理言って」石川さん、嬉しそうにビールをゴクリでした。

協栄ジム・亀田兄弟揃い踏み

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5日の有明コロシアムでは、亀田兄弟の長男・興毅選手、次男・大毅選手が初の揃い踏み。お互いの刺激の仕合いもあって面白そうな感じ・・・。

亀田選手には、ボクシング人気をもっと盛り上げていってもらう為にも、ファンにアピールする試合を期待したいと思います。

この兄弟、練習も良くやりますが、何といっても”ハートの強さ”がボクシング向き。実戦に強いタイプ。世界の舞台で勝負出来る、ハート持っています。

亀田選手の活躍で一躍その名がクローズアップされている”協栄ジム”。そのルーツを若いファンの皆様にも知っておいて頂きたいと思います。

昭和34年8月、ぼくが19歳の時、ある人の紹介で、元ボクサーで”とんきん”というトンカツ屋をやっていた金平正紀(故人)さんを知り、そのお店に入れてもらい、昼間は出前や下働きをして、合間をみて金平さんの所属していた野口ジムへ、自転車で練習に行きました。マスターの金平さんも一緒です。

ところが入門して3日目にスパーリングをやらされました。まだ基礎も何も判らない私は、相手が打ってくるのをよけるのが精一ぱい。

でも私も目茶苦茶のケンカ流でなぐりあいました。その時「オイ若いの、いいぞ」って声をかけられました。それが先代の野口 進 会長(故人)だったんです。

やっとの思いで3回のスパーが終わってボクがハアハアいっていると、金平さんが「会長どうですか?」って野口会長に聞くと、「ウーン、土方と魚屋のケンカだね」って大きな声で笑われましたよ。

そして「お前、新人王に出ろ」って言われてびっくりしました。だって予選が始まるのに1ヶ月位しかないんだから。

その前にテストもあるでしょう。それからは毎日スパーリングで、本当の意味で私は体でボクシングを覚えたわけです。

そして20日目にテストを受け、これにパスした時は自分自身がビックリしました。すくなくともプロと名のつくスポーツで、たった20日間で受かった人は、少ないでしょうね。

(以上抜粋)は、ボクシングマガジン誌1981年2月号に、”青春を彩った想い出の試合”と題して、海老原博幸氏(故人)から寄稿された文章の書き出しです。

海老原博幸、協栄ジム所属の初の世界チャンピオン。デビュー昭和34年9月20日。世界フライ級王座に付く事2度。66勝(36KO)5敗1分。その左ストレートは、カミソリ・パンチと恐れられた。

野口 進 会長の言葉が聞いたのかどうかは別として、協栄ジムの先代金平正紀会長は、先のトンカツ屋を売り飛ばし、ボクシング界に戻って来た。

私が聞いている限りでは、”とんきん”のオーナー金平氏が会長。コックだった山神淳一氏(現、藤沢市の山神ジム会長)がトレーナー、出前持ちの海老原氏が選手と、店のメンバーがそっくりジムになった嘘みたいな話・・・。

このお店、結構はやっていたようで惜しむ人も多かったとか。場所は恵比寿駅近くで、私もこの由緒ある場所へ連れて行ってもらった事があります。先代金平会長、トンカツの味には”一言”ありました。

若い師弟は、お礼の菓子折りを下げて、あっちのジムこっちの道場を借りて歩く毎日だったとか。

今日協栄ジムには、全国各地からアマ、プロ選手達がスパーに訪れます。大竹マネジャーは、その全てを快く引き受けます。それは、こんな歴史をわかっているからこその、心意気でしょうか。

海老原選手は、東日本フライ級新人王決勝戦で原田政彦(笹崎)選手に敗れましたが、その後は32連勝。昭和38年9月18日ポーン・キングピッチ(タイ)を127秒で倒し世界フライ級チャンピオンに輝きます。

以上が、協栄ジムの始まりの話。山神トレーナー(当時)は、”鬼の山さん”と言われていたと聞いていますが、「今はまるくなったけどね〜、でも会うと緊張するよ〜](^^)と、言う先輩もいます。

この”怖さ”も大事な所ですね。ファイティング原田選手を育てた、先代笹崎会長(故人)がインタビューの中で面白い事をおっしゃられています。

これは次回のお楽しみと言う事で、続きます。

5月1日の試合で、ダウンを奪ってコーナ
へ戻るなり”どやされた”白石選手。

いきなり丸刈りで現れ、「やられちゃったの
?」とか、心配されていました。

「今日はもういいよ」と、言ってもなかなかや
めないので、色々と言われるハメに(^^)

「何だ昨日手を出さなかった分、今日やって
んのか?」
「元気あってしょうがないだろ」

「こいつ試合した感じしないだろ〜」、「そう言えば元気ありそうですね」
「情けない、サビシィ〜、白石〜」等と、言われまくっても嬉しさを隠せない白石選手でした。

5/1 東日本新人王予選

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1日夜、後楽園ホールに於いて、東日本新人王予選が行われました。協栄ジムからは2選手が出場。

フライ級白石豊土(4戦3勝1KO1分)選手は、新日本木村ジムの酒井幸太(1戦1勝1KO)選手と対戦。昨年、札幌でのデビュー戦は引き分けたものの、現在3連勝中の白石選手。

3月20日の前戦は、ピンチヒッターでの出場。すでに新人王戦出場が決まっており、KO負けしたら”罰金”のプレッシャー?の中、ダウンを跳ね返してのKO勝ち。

彼は早速、次の日から練習にやって来ました。2月にも試合しているので、このまま勝ち上がる事が出来れば、今年1年でかなりの試合をこなす事になりそうです。

この日は、白石選手は3番目の試合。第1試合を横目で見つつアップするうちに、第1試合終了、判定を聞く。40−36が二人、38−38の2−0。

直ぐそばにいた山神ジム、山神会長と目と目が合う。怒るとか怒りとかは無く、タダあきれて、笑ってしまうのみ。「何あれ〜」「何でそうなるの」「怖いねぇ〜」・・・。

いったいどういう基準で採点したら38−38になるのか、この採点をしたジャッジ以外には判りえない採点。4回戦でも採点がこんなに割れてしまうケースが、大変目立つ後楽園ホール。ここは、坂出サティじゃないよなぁ〜。(^^)

さて白石選手の試合、4回戦なんだから1ラウンドから行くように良く言い聞かせたつもりでしたが、構えあった瞬間から右の”一発狙い”が見え見え・・・。

「何やってんだアイツ」「ま〜たこれかよ」「あいつも進歩してないなぁ〜」

「手を出せよ白石」「打てば当たるよ、相手何も無いよ」

第1ラウンド、少ない手数ながら有効打でポイントは獲る。しかし、「お前、何やってんだ」「あの相手は、2回3回追えばあたるから、前に出ろよ」「もう怖くないだろ〜」「ま〜た何にもやらないつもりかよ〜」

第2ラウンド開始、お互い手数が極端に少ない。レフェリーから、「もっと手を出すよう」両者に注意。

2ラウンド終盤、狙っていた右カウンターが見事に決まり、ダウンを奪う。かなり効いている。しかし、この回終了のゴング。

ダウンは取りましたが、コーナーではボロクソ。

「お前、何やってんだ」「もっと自分のボクシングしろよ」「たくさん手を出して、たくさん当てろ」「こんな事やってたら、次やられるぞ」「「しっかりやって来い」

ハッパが効いたのか3、4ラウンドと手数を出して攻め、たくさん当てました。

「相手、良く頑張るなぁ〜」「効いてるのになぁ〜」と、大竹マネジャー。    

効いたパンチもかなりあったと思いますが、酒井選手が健闘して良く踏ん張り、勝負は判定へ。

40−35,40−36(2人)の無事、平和な?判定で白石選手が勝利しました。3連勝で”ちょっといい気持ち”になっていたようですね。自信と過信は紙一重のこの世界、気持ち一つです。

試合後の医務室。試合を終えた両選手が、お互いに「ありがとうございました」と、挨拶しすれ違う刹那、酒井選手が大きな声で男泣き。あれだけ頑張った意味がわかりました。

「皆気持ち入れて新人王獲りに来てるんだから、舐めてたらやられるぞ。わかったか白石」

白石選手、次は6月1日ホール登場です。今日も早速、練習来るでしょう。

フェザー級予選に出場は、市丸耕平選手。ここまで、2戦2KO勝ち。1発KOパンチがある選手。

対戦相手は加藤英俊選手、新日本木村ジム。この日は、協栄VS新日本木村の2連戦なのでした。

結果、2ラウンド市丸選手のKO勝ち。最初は右ストレート、最後はガチャガチャの中からの左フックでしょうか。パンチあるなぁ〜という感じの試合。

しかし、25才加藤選手も良く頑張りました。真面目なタイプで、頑張るぞっていうのが感じられるタイプの選手でしたね。

この日のホールは、オール新人王予選の割には良く入っていたのではないでしょうか。試合も、”新人王”獲るぞの気迫が感じらた、良い試合が多かったように思います。結構盛り上がっていました。

これからトーナメントが進むにつれ、面白い試合が続くことでしょう。各選手の成長が楽しみですね。

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