2度目の世界挑戦は0−2判定負け。またしても世界王座奪取ならなかった亀田大毅(亀田)選手は、WBA世界フライ級王者デンカオセーン・カオウィチット(タイ)へ再戦要求。パナマのWBA本部へ資料は送付され、裁断を待つ。
たくさんのご意見を頂きましたが、こちらのアンケートの結果では、亀田大毅の再戦要求は妥当? 。約85%の方々が、再戦は妥当でないとの回答。
WBA同級暫定王者ルイス・コンセプシオン(パナマ)は、コロンビアで開催されるWBA総会期間中(16〜22日)の11月19日、パナマシティで元IBFミニマム級王者ロベルト・レイハ(メキシコ)相手に初防衛戦を予定。果たして王座統一戦は義務付けられるのか?亀田陣営の再戦要求は?
昭和47年(1972年)。沖縄本土返還の年 。上原康恒&晴治選手の上原兄弟は、協栄ジムからプロデビューが発表される。”沖縄の星”は、大きな期待を集め、内緒で契約金一千万円貰った程。これは凄い金額です。

金平正紀会長のスポンサーが支払ったという契約金。四谷に3LDKのマンションも提供された。後、契約金なしでプロ入りの具志堅用高選手は、このマンションに居候。中真 茂 選手(沖縄WR会長)も同居組。
兄康恒選手はハワイのスタンレー・イトウ先生の下へ預けられ、11月14日6回戦でプロデビュー。4回KO勝ちで初陣を飾っている。1週間後の21日には早くも第2戦に挑んだが、終了ゴング後の反則打で敗れる。しかし、これはご愛嬌と言う事で、その後は連勝を続け4勝(3KO)1敗の成績で帰国。
弟晴治選手は、73年1月11日ロサンゼルスでプロデビュー。ロスでトレーナー修行中の渡辺 剛 氏とコンビを組んだ。7月までに4戦全勝(3KO)。そのエネルギッシュなファイトは人気を集め、プロ3戦目には10回戦。
勝利のリングで行う宙返りから、”フリッパー”のリングネームを名乗る。メインジムでは17戦全KOのダニー・ロペス(米・後WBC世界フェザー級王者)からダウンを奪って見せた。

帰国後、康恒選手は日本Sフェザー級4位。フリッパー選手は、早くも日本フェザー級1位にランクされた。帰国後3連勝、5連続KO勝利の康恒選手に、73年11月世界のチャンスが訪れる。
地元沖縄で時のWBC世界Sフェザー級王者リカルド・アルレドンド(メキシコ)と対戦。世界王座を賭けての戦いになるはずだったが、WBCの許可が得られずノンタイトル12回戦に変更される。フリッパー選手は元世界ランカーメミン・ベガ(メキシコ)と対戦する。
この時、上原兄弟から紹介されたのが具志堅選手。小さいのに躊躇なく相手の懐にもぐりこむ高校生を見た金平会長は、心動かされるものがあったようだ。”100年に一人”も契約金はなしでした。(~~)
現役世界王者を一方的判定に破った康恒選手は、一躍世界4位にランクされた。次はタイトルを賭けての契約もある。気負いこんだ康恒選手だったが、アルレドンド挑戦は実現しなかった。

康恒vsアルレドンド。
「世界まで距離がある時は、『世界、世界』と無理にでも言いますが、『世界』が射程圏内に入ったら、勝てる勝負しかしませんよ」(金平会長)
時を同じく、ベン・ビラフロア(比)とのリマッチに破れ、WBA世界Sフェザー級王座を失ったばかりの柴田国明選手を擁する米倉会長から、挑戦権の譲渡話が来た。
「いいですよ。頑張ってくださいよ」(~~)
「ありがとうございます。勝ったら必ず上原君とやりますから」(~~)
この時、金平会長、米倉会長は同じ全日本協会派に属していた。協会分裂の時代。反対派にいた門田新一(三迫)選手は、アルレドンドとのノンタイトル戦、WBC世界ライト級王者ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)への挑戦を、この両会長に先を越された形。これは不運でした。
上原戦から3ヶ月、アルレドンドは初回KO負けからの再起戦の柴田選手に王座を明け渡す。だが、柴田vs上原戦は実現しない。この辺りは色々ありますね。(~~)
世界挑戦を熱望する康恒選手は、ハワイでの挑戦話に大きな自信を見せた。ベン・ビラフロア。サム・イチノセ氏に見いだされたハードパンチャーは、柴田選手から王座を奪い返し、意気揚々2度目の防衛戦。
「一応、上原にも話してみる」だけのつもりだった金平会長だったが、上原選手の情熱に押し切られる形でゴーサインを出す。しかし、プロ入り2年に満たない康恒選手の王座アタックは、キャリア不足をさらけ出し、「後半勝負」の作戦を忘れ、初回から突っかかっていった挑戦者は、何も出来ず2回TKO負け。思いでのホノルルで失意の涙を流す。
日本王座からやり直し。マニラ遠征等も経験、慎重にその時期を待ち続けた康恒選手が世界王座を掴むのは、失意のホノルルから7年も後の事。後輩具志堅選手に追い抜かれた悔しさを、「俺にだって出きる」と言い聞かせて来た長い道のりだった。
一方のフリッパー選手も、元ランカーベガを破り世界への道を驀進。金平会長は勝負に打って出る。74年7月、世界ランカーヒューゴ・バラサ(コロンビア)に挑むも、技巧派バラサの前に4回KO負けで初黒星。しかし、強気の金平会長は再起戦の相手に古豪サミー・ゴス(米)を指名。インターバル僅かに2ヶ月。

フリッパーvsベガ。
元世界上位ランカーゴスと引き分けたフリッパー選手は、一月後再び世界ランカーと対戦する。金平会長、もの凄い執念であります。だが、後の世界王者リゴベルト・リアスコ(パナマ)の前に判定負け。またもや世界ランク入りはならなかった。
出直しは日本タイトル。5ヶ月の休養の後、牛若丸原田(笹崎)選手の持つ日本フェザー級王座に挑戦。見事にこれを奪い再出発を果たしたフリッパー選手。初の世界挑戦は同僚シゲ福山選手の代理でガーナまで飛んだ。
荒波に揉まれた元祖”沖縄の星”上原兄弟。勢いがあるうちに世界ランク入りを目指し、後はキャリアを積ませる。失敗後の出直しは日本タイトルから。「そうしなければ世間が納得しないでしょう」。
具志堅選手は、強打の世界ランカーセサール・ゴメス・キー(米)との試合で世界ランクを奪い。新設されたばかりのLフライ級という事で、一気に世界挑戦に及んでいる。
「具志堅にはデフェンスを教えている時間がなかった」(渡辺トレーナー)
現在の世界王座統括団体がどんな答を出しても驚くにはいたらない。WBAはどんなお達しを出すのだろうか。コンベンションを前に注目されます。
たくさんのご意見を頂きましたが、こちらのアンケートの結果では、亀田大毅の再戦要求は妥当? 。約85%の方々が、再戦は妥当でないとの回答。
WBA同級暫定王者ルイス・コンセプシオン(パナマ)は、コロンビアで開催されるWBA総会期間中(16〜22日)の11月19日、パナマシティで元IBFミニマム級王者ロベルト・レイハ(メキシコ)相手に初防衛戦を予定。果たして王座統一戦は義務付けられるのか?亀田陣営の再戦要求は?
昭和47年(1972年)。沖縄本土返還の年 。上原康恒&晴治選手の上原兄弟は、協栄ジムからプロデビューが発表される。”沖縄の星”は、大きな期待を集め、内緒で契約金一千万円貰った程。これは凄い金額です。

金平正紀会長のスポンサーが支払ったという契約金。四谷に3LDKのマンションも提供された。後、契約金なしでプロ入りの具志堅用高選手は、このマンションに居候。中真 茂 選手(沖縄WR会長)も同居組。
兄康恒選手はハワイのスタンレー・イトウ先生の下へ預けられ、11月14日6回戦でプロデビュー。4回KO勝ちで初陣を飾っている。1週間後の21日には早くも第2戦に挑んだが、終了ゴング後の反則打で敗れる。しかし、これはご愛嬌と言う事で、その後は連勝を続け4勝(3KO)1敗の成績で帰国。
弟晴治選手は、73年1月11日ロサンゼルスでプロデビュー。ロスでトレーナー修行中の渡辺 剛 氏とコンビを組んだ。7月までに4戦全勝(3KO)。そのエネルギッシュなファイトは人気を集め、プロ3戦目には10回戦。
勝利のリングで行う宙返りから、”フリッパー”のリングネームを名乗る。メインジムでは17戦全KOのダニー・ロペス(米・後WBC世界フェザー級王者)からダウンを奪って見せた。

帰国後、康恒選手は日本Sフェザー級4位。フリッパー選手は、早くも日本フェザー級1位にランクされた。帰国後3連勝、5連続KO勝利の康恒選手に、73年11月世界のチャンスが訪れる。
地元沖縄で時のWBC世界Sフェザー級王者リカルド・アルレドンド(メキシコ)と対戦。世界王座を賭けての戦いになるはずだったが、WBCの許可が得られずノンタイトル12回戦に変更される。フリッパー選手は元世界ランカーメミン・ベガ(メキシコ)と対戦する。
この時、上原兄弟から紹介されたのが具志堅選手。小さいのに躊躇なく相手の懐にもぐりこむ高校生を見た金平会長は、心動かされるものがあったようだ。”100年に一人”も契約金はなしでした。(~~)
現役世界王者を一方的判定に破った康恒選手は、一躍世界4位にランクされた。次はタイトルを賭けての契約もある。気負いこんだ康恒選手だったが、アルレドンド挑戦は実現しなかった。

康恒vsアルレドンド。
「世界まで距離がある時は、『世界、世界』と無理にでも言いますが、『世界』が射程圏内に入ったら、勝てる勝負しかしませんよ」(金平会長)
時を同じく、ベン・ビラフロア(比)とのリマッチに破れ、WBA世界Sフェザー級王座を失ったばかりの柴田国明選手を擁する米倉会長から、挑戦権の譲渡話が来た。
「いいですよ。頑張ってくださいよ」(~~)
「ありがとうございます。勝ったら必ず上原君とやりますから」(~~)
この時、金平会長、米倉会長は同じ全日本協会派に属していた。協会分裂の時代。反対派にいた門田新一(三迫)選手は、アルレドンドとのノンタイトル戦、WBC世界ライト級王者ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)への挑戦を、この両会長に先を越された形。これは不運でした。

上原戦から3ヶ月、アルレドンドは初回KO負けからの再起戦の柴田選手に王座を明け渡す。だが、柴田vs上原戦は実現しない。この辺りは色々ありますね。(~~)
世界挑戦を熱望する康恒選手は、ハワイでの挑戦話に大きな自信を見せた。ベン・ビラフロア。サム・イチノセ氏に見いだされたハードパンチャーは、柴田選手から王座を奪い返し、意気揚々2度目の防衛戦。
「一応、上原にも話してみる」だけのつもりだった金平会長だったが、上原選手の情熱に押し切られる形でゴーサインを出す。しかし、プロ入り2年に満たない康恒選手の王座アタックは、キャリア不足をさらけ出し、「後半勝負」の作戦を忘れ、初回から突っかかっていった挑戦者は、何も出来ず2回TKO負け。思いでのホノルルで失意の涙を流す。
日本王座からやり直し。マニラ遠征等も経験、慎重にその時期を待ち続けた康恒選手が世界王座を掴むのは、失意のホノルルから7年も後の事。後輩具志堅選手に追い抜かれた悔しさを、「俺にだって出きる」と言い聞かせて来た長い道のりだった。


一方のフリッパー選手も、元ランカーベガを破り世界への道を驀進。金平会長は勝負に打って出る。74年7月、世界ランカーヒューゴ・バラサ(コロンビア)に挑むも、技巧派バラサの前に4回KO負けで初黒星。しかし、強気の金平会長は再起戦の相手に古豪サミー・ゴス(米)を指名。インターバル僅かに2ヶ月。

フリッパーvsベガ。
元世界上位ランカーゴスと引き分けたフリッパー選手は、一月後再び世界ランカーと対戦する。金平会長、もの凄い執念であります。だが、後の世界王者リゴベルト・リアスコ(パナマ)の前に判定負け。またもや世界ランク入りはならなかった。
出直しは日本タイトル。5ヶ月の休養の後、牛若丸原田(笹崎)選手の持つ日本フェザー級王座に挑戦。見事にこれを奪い再出発を果たしたフリッパー選手。初の世界挑戦は同僚シゲ福山選手の代理でガーナまで飛んだ。
荒波に揉まれた元祖”沖縄の星”上原兄弟。勢いがあるうちに世界ランク入りを目指し、後はキャリアを積ませる。失敗後の出直しは日本タイトルから。「そうしなければ世間が納得しないでしょう」。
具志堅選手は、強打の世界ランカーセサール・ゴメス・キー(米)との試合で世界ランクを奪い。新設されたばかりのLフライ級という事で、一気に世界挑戦に及んでいる。
「具志堅にはデフェンスを教えている時間がなかった」(渡辺トレーナー)
現在の世界王座統括団体がどんな答を出しても驚くにはいたらない。WBAはどんなお達しを出すのだろうか。コンベンションを前に注目されます。
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